話し相手20160629

悩みと云うものは実に多様であり、あらゆる事柄について、悩みが発生する可能性がある。「~~の悩み」 と云う格好で、どんな事でも悩みになり得る。ここでは、個別の悩みではなくて 「悩み」 一般について考えてみるが、悩みと云うのは、その重要さも、人によって様々だ。いかに些細な事柄の様に思えても、その人が悩みだという以上、その人にとっては深刻な悩みなのである。他者にとやかく云う資格などありはしない。だが、そうだとすれば、逆に、こうも云えるわけである。「問題は問題と意識されるから問題となっている」 と云うのと同様に 「悩みは悩みと意識されるから悩みなのだ」と。

つまり 「そんな事で悩んでいたなんて」 と本人が思えれば……そうなれば、もはや悩みは悩みでない。ただ、そうも行かない場合もある。例えば、身体の不調の悩み。この場合、病は気からとは云うものの、しかるべき診療機関で、適切な処置を受けなければ悩みは解決されないだろう。あるいは、誰が見ても明らかに理不尽な職場環境などもそうかも知れない。そうした場合、気の持ちようで済ます訳にはいかない。だが更にまた、病に関してなら、不治の病に罹患している悩み、と云うのもある。現代医学でどうしても改善できないならば、今度は、その病と折り合いをつけ、その人がその人らしく、余生を全うする術が模索されればならない。

そうなると、悩みへの対処には2つの方向性が考えられる。ひとつは悩みの源を除去する方向。たとえば身体の不調なら治療によって治すこと。職場の人間関係なら配置転換を図るなど。あるいは学業不振なら家庭教師をつけたり塾に通うとか、夫婦のトラブルなら離婚するなどの対処である。

ふたつめは、悩みとなっている事柄に対する考え方や感じ方 (認知) を変える事である。要は気の持ちようを変える事だ。それが上手くいけば「悩みは悩みでなくなる」。 とは云え、いずれにも欠点はある。悩みの元を解決すると云っても不可能な事も多い。人事異動など出来ない場合もあるし、認知を変えたところで、一方的に暴力を振るい続ける夫のそばにいては生命に関わる。それぞれに適した対処が求められる所以である。

だが、いずれの対処を選択するにしても、悩みというのは誰にとっても苦しくつらいものである。そして、どんな対処をするにしても、簡単に解決など出来ないから悩むのだ。けれど、その心の痛みを、緩和することは出来る。

まず必要なのは、その苦悩や葛藤を誰かに分かって貰う事ではないだろうか。誰にも分かって貰えない悩みを、理解して貰えた実感。それが、それだけで、救いになるのは何故だろう。それは 「分かつ」 からだ、と云っても良い。その悲しみ、苦しみ、痛みを 「分かち合って貰う」 事で、心の苦悩や葛藤は多少なりとも軽くなる。悩みを、話し、理解され、分かたれる事。また、そうして軽くなった心には、悩みの源を除去するアイデアが去来するかも知れない。

ところで、悩みが悩ましいのは、実はこれのせいでもあるのだが、そこに感情が伴うからだ。だが、悩みにともなって沸き起こる僕たちの 「感情」 は、状況や関係から直接おこる訳ではない。同じ状況に置かれても、人それぞれの感じ方が違う事で、それは判る。感情は出来事から発生する訳ではなく、それを体験した、その人に固有な認知(物事の受け取り方)によって引き起こされる。まさに 「気の持ちよう」 と云う訳だ。

認知療法では、ある出来事に際して自動的に湧き起こってくる思考やイメージや記憶を 「自動思考」 と呼ぶ。更に、その人が持つ基本的で潜在的な、価値観・人間観・人生観を 「スキーマ」 と呼ぶ。たとえば、「自分は無能だ」 と云うスキーマをその人が持っていれば、ある出来事に際して 「どうせ自分には無理だ」 「自分は嫌われてる」 「生きていても意味はない」……etc.の自動思考を生みやすいとされる。こうした認知が果たして現実に即しているのか? もし不適切だとすれば、さしあたりそれを 「認知の歪み」 と呼ぼう。

「悩み」 についても同じことが云える。そもそも 「悩み」 と「感情」とが一体である以上、当然ではあるが、「悩み」は事柄(現象や関係性)から直接発生しない。同じ状況でも、ある人には悩みとなり、ある人には悩みとはならない。そんな事は幾らだってある。悩みは、それを体験したその人に固有な認知 によって引き起こされる。と同じことが云える訳である。

さて、悩みを低減するには、先ず 「悩みを、話し、理解され、分かたれる事」 と書いた。だが、そうした 「分かたれる」 対話のなかで、もしも、この様な自分の 「認知の歪み」 が発見されたとしたらどうだろう。今述べた様な、悩みを引き起こしている 「自動思考」 が、ごく自然に書き換えられる可能性が出てくるのではないか。そしてその時……問題となる出来事や関係は、自分のなかに適切に収められ、悩みは悩みでなくなっているかも知れない。自分だけでは気づけない思考の癖の修正には、誰かの手を借りてみるもの良いのではないだろうか。

それだけではない。話すことを通じて、その様な 「認知の歪み」 を引き起こす 「スキーマ」 を見出し、更にはその形成に影響した感情の原風景に出会うかもしれない。対話のなかで穏やかに自分と向き合い、その風景を眺める事は、きっと心の癒しにつながるのではないだろうか。


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