誰にも云えない悩み……抱えていませんか? そう、誰にだって 「悩み」 のひとつやふたつ、あるものです。そして、悩みなどと云うものは、そもそも簡単に人に語れるものではありません。また何故それが悩みなのか、理解されない事すらあるでしょう。ですが、それでも手放したいのが 「悩み」 です。

悩みは悩みと意識されるから悩みとなる

話し相手7
思えば、悩みと云うのは実に多彩です。あらゆる事柄が悩みになり得ます。「恋の悩み」 もそうなら 「〇〇の悩み」 と云えば、どんな事でも悩みになり得る訳です。ただ、そうでありながら一方で、全ての悩みが個別的であるのも悩みの特徴です。その重みも様々なら、いかに些細な事柄の様にみえても、それは、その人が悩みだという以上、その人にとっては深刻な悩みなのです。他者にとやかく云う資格などありません。ですが、そうだとすれば、逆に、こうも云えます。「問題は問題と意識されるから問題となっている」 と云うのと同じで 「悩みは悩みと意識されるから悩みなのだ」 と。いかに深い悩みも 「そんな事で悩んでいたなんて」 と、本人が思えたなら……それは、もはや悩みは悩みでないと云えます。

「悩み」 を解消する2つの方向性

身も蓋もない云い方をしてしまえば 「悩み」 は気の持ちようでもあると云う事なのですが、ただ、そうも行かない場合もあります。たとえば、身体不調の悩み。この場合、病は気からとは云うものの、しかるべき診療機関で適切な処置を受けなければ悩みは解消されません。あるいは、誰の眼にも明らかに理不尽な職場環境や対人関係などもそうかも知れません。この場合、気の持ちようでは解消できません。病に関してなら、現代医学では不治とされている病に罹患している悩み、と云うのもあります。どうしても改善できないならば、今度は、その病と折り合いをつけ、その人がその人らしく、余生を全うする術が模索されればならないはずです。

と、なると、悩みへの対処には2つの方向性が考えられます。まずひとつめは、悩みの源泉を除去する方向です。たとえば身体の不調なら治療によって治すことだし、職場の人間関係なら配置転換を図るなどと云った対処。あるいは学業不振なら家庭教師をつけたり、塾に通うとか、夫婦のトラブルなら離婚するなどの対処です。話し相手8そして、ふたつめは、悩みとなっている事柄に対する考え方や感じ方 (認知) を変える方向です。こちらは、要は気の持ちようを変える方向性と云っていいでしょう。それが上手くいけば「悩みは悩みでなくなる」 か、あるいは低減します。

とは云え、いずれにも欠点はあります。悩みの源泉を解決すると云っても現実的に不可能な事があります。不治の病の様な場合もあれば、また事情により人事異動など出来ない場合もあります。一方、逆に、認知を変えたところで、長年に渡って一方的に暴力を振るい続ける夫のそばにいては生命に関わるでしょう。それぞれに適した対処を選択する必要がある訳です。

まずは 「悩み」 分かってもらうこと

ですが、いずれの対処を選択するにしても、悩みというのは誰にとっても苦しくつらいものです。そして、どんな対処をするにしても、簡単に解決など出来ないから悩むのです。けれど、その心の痛みを、緩和することは出来るのです。

まず必要なのは、その苦悩や葛藤を 「誰かに分かって貰うこと」 ではないでしょうか。誰にも分かって貰えない悩みを、理解して貰えた実感。それが、それだけで、救いになるのは何故でしょう。それは 「かつ」 からだ、とも云えます。その迷い、苦しみ、痛み、悲しみを 「分かち合って貰う」 事で、心の苦悩や葛藤は多少なりとも軽くなります。悩みを 「話し」 「理解され」 「分かたれること」。そしてまた、そうして軽くなった心には、悩みの源泉を除去するアイデアが去来するかも知れません。

<対話>による認知の修正

ところで、「悩み」 が悩ましいのは、事柄の難しさのせいだけではありません。むしろ、そこに感情が伴うから悩ましいのです。けれど、悩みに伴なって沸き起こる僕たちの 「感情」 は、これもまた状況や関係から直接に沸き起こる訳ではありません。それは、同じ状況に置かれても人それぞれで感じ方が違う事で判ります。感情は出来事から発生する訳ではなく、それを体験した、その人に固有な認知(物事の受け取り方)によって引き起こされるのです。まさに 「気の持ちよう」 と云う訳です。

認知療法では、ある出来事に際して自動的に湧き起こってくる思考やイメージや記憶を 「自動思考」 と呼びます。そして、更にその奥にある、その人が持っている基本的で潜在的な、価値観・人間観・人生観を 「スキーマ」 と呼びます。話し相手9たとえば、「自分は無能だ」 と云うスキーマをその人が持っていれば、出来事に際して 「どうせ自分には無理だ」 「自分は嫌われてる」 「生きていても意味はない」……etc.の自動思考を生みやすいとされています。さて、こうした認知が果たして本当に、現実に即しているのかどうか? もし不適切だとするならば、差し当たりそれを 「認知の歪み」 と呼びます。

「悩み」 についても同じことが云えます。そもそも 「悩み」 と「感情」とが結託している以上は当然ですが、「悩み」は事柄(現象や関係性)から直接発生しません。同じ状況でも、ある人には悩みとなり、ある人には悩みとはならない。そんな事は幾らだってあります。「悩みは、それを体験したその人に固有な認知 によって引き起こされる」 と同じことが云える訳です。

さて、悩みを低減するには、まず 「悩みを、話し、理解され、かたれる事」 と述べました。ですが、そうした 「かたれる」 対話のなかで、もしも、この様な自分の 「認知の歪み」 が発見されたとしたらどうでしょうか。今述べた様な、悩みを引き起こしている不適切な 「自動思考」 が、ごく自然に書き換えられる可能性が出てくるのではないでしょうか。そしてその時……問題となる出来事や関係は、自分のなかに適切に収められ、悩みは悩みでなくなっているかも知れません。自分だけでは気づけない思考の癖の修正には、誰かの手を借りてみるもの良いのではないでしょうか。

それだけではありません。話すことを通じて、その様な 「認知の歪み」 を引き起こす 「スキーマ」 を見出し、更にはその形成に影響した感情の原風景に出会うかもしれません。<対話>のなかで穏やかに自分と向き合い、その風景を眺める事は、きっと悩みの低減につながるでしょう。