抑えきれずに湧き上がってくる気持ちが苦しい。出来れば、こんな気持ちになどなりたくはない。考えたくない、平静でいたいのに。自分の気持ちなのに、振り回され、翻弄され、そして苦しい。この気持ちをどうすれば良いのか……往々にしてあるそんな時を、なんとか乗り切るためには……。

人は感情から逃れられない

なにが苦しいと云って、結局のところ人は自分の感情に苦しむものではないでしょうか? 感情の生き物と云われますが、いかに合理的な 「理性」 や 「思考」 に従っていたとしても、それらに従うことにさえ、感情はついて回ります。話し相手10人は感情から逃れることなど出来はしないのです。自分の気持ち、自分の感情なのに、それに自分が苦しめられる。そんなことは僕たちの日常にはありふれています。それどころか、僕たちが抱える様々な悩みは、煎じ詰めれば感情の問題なのかも知れません。

「腹が立って仕方がない」 「どうしても許せない」 「悲しみが止まらない」 「訳もなく不安だ」「嫌なのに思い出してしまう」……etc. 頭では既に割り切ったり、どうすべきか判っていたり、事実そうしていたりするけれど、どうにも自分のなかで沸き起こってくる感情が苦しい。また、どうしてそんな感情に駆られるのか判らない事もあれば、それが適切な感情なのかも判らず、つらい事もあるでしょう。人にとって気持ちとは何とも厄介なものです。

感情に良いも悪いもありはしない

とは云え、そもそも感情に良い悪いなどありはしません。何故なら、本来、感情とは、生物としての人の自然な反応なのですから。逆に云えば、それ以上でも以下でもない訳です。それなのに……それが、苦しかったり、つらかったりするのはどうしてでしょうか。それは、その感情に対して、その人が、潜在的に (あるいは顕在的に) ある種の価値判断を紛れ込ませていたりしているからではないでしょうか。あるいは、その感情によって不都合な行動に突き動かされたり (そうになったり)、また心理的に不快な緊張が高まったり、それが抱えきれないほど大きかったりと、様々なものに彩られているからではないでしょうか。

自分の感情を大切に

話し相手11自分のなかで沸き起こった自然な感情。腹が立つのも、許せないのも、悲しいのも、そこには、そう感じざるを得ない理由があったはずです。大切な人を失えば、悲しくて仕方がなくなり気力さえも失うのは、ある意味で当然です。ですが、 「取り返しのつかないものは仕方がない」 「いつまでもクヨクヨしていてはダメだ」 「しっかりしないと」 「忘れなくてはいけない」……etc. と人は往々にして思います。また、心無い仕打ちを受ければ許せないのも当然です。けれど、「怒りの感情は良くない」 「許せないのは大人げない」、と人は自分を責めたりもします。しかしながら、そうして自分の感情を偽れば、その抑圧は、更に自分を苦しめることになります。そうではなく、逆にまずはそんな自分の感情を認めてあげる。悲しいものは悲しいのだし、許せないものは許せないのです。それが最終的には、苦しさや、つらさ、悩ましさを和らげることに繋がります。

感情に善悪などありません。それ相応の理由があって沸き起こった自然な反応。その感情を認め大切にするからこそ、時の経過のなかで、人はその感情を受容し、自分のなかのしかるべき場所に収めて行くことが出来るのではないでょうか。思い出し、悲しむべき時に適切に悲しみ、怒るべき時に適切に怒ることが出来る状態とでも云えばよいでしょうか。もちろん、自分の本当の感情に向き合うのは誰にとっても怖いことです。嫌なことです。難しいことでもあります。ですが、<対話> を通してそんな自分の感情を誰かと 「かち合う」 ことは、本来しかるべき理由のあった本当の気持ちを、認めることの手助けになります。ひとりでは抱えきれないほどの感情でも、誰かと分け合えば……。

カタルシスと認知の書き換え

ところで、対話(コミュニケーション)のなかには「自己開示」と云う種類のものがあります。自分自身のことを相手に正直に語ることなのですが、この機能のひとつに感情浄化(カタルシス)があります。話し相手12たとえば自分の仕出かした恥ずかしいことなどを、誰か打ち明け、理解され、それで気が楽になったことはないでしょうか? それは自虐めいた道化的な語りだったりするかも知れませんが、それでもなんとなく心が軽くなった経験はないでしょうか。

怒り、不安、悲しみ、罪悪感、不満、羞恥、葛藤……etc.そうしたものを自分の胸の内だけに抱え、その重みに耐えきれなくなった時、それを誰かに聴いて貰い理解され楽になると云う訳ですが、これもまた 「かつ」 と云うことに違いありません。押し潰されそうになる自らの感情を誰かと 「かち合う事」 それで重さが半減します。もしかするとキリスト教における告解、告白、懺悔にも、そう云う作用があるのではないだろうか、と素朴に思ったりもします。

さらに、「悩みがある」 にも書きましたが、「感情」 は 「出来事(現象や関係)」 から直接に湧き上がるものではありません。その出来事に対する、その人に固有な認知(物事の受け取り方)、によって引き起こされるものです。従って、その出来事をどう捉えるかによって、つまり、その認知をどう書き換えるかによって、感情は変化するのです。自分を苦しめている自分の感情を、誰かと分かち、自分の本当の気持ちを受け入れること、そして、それらを通じて、自然な形で、その出来事や関係性に対する受け止め方が変化することで、感情に伴う嫌な思いの低減に繋がるのだと思います。