気を遣って思った事が云えない、と云った事はありませんか? 逆に、誰に対しても攻撃的になってしまう。また、特定の人や状況を前にすると上手く振舞えない。そんな事はないですか? 誰に対しても関係を結ぶのが苦手。そんな事もあるかも知れません。更には、もつれた人間関係の悩みも……。

人の悩みの大半は対人関係の悩みである

話し相手13 「人付き合いが苦手」 と云う人は意外に多いものです。普段はなんとなく過ごしている。けど本当は、いつもどこかで苦手意識が拭えない……。そうした人との接し方そのものへの悩みがあります。また一方では、複雑な人間関係や特定の人間関係についての悩みがあります。思えば、人の悩みの大半は、対人関係に根ざしている云っても過言ではないでしょう。職場、学校、家族、友達、親類、地域 etc. そこでの悩みには、当然、人間関係が絡んでいるからです。だったら、と云う事で、たとえば 「自分の生き方」 についての悩み。けれど自分の生き方には、やはり関係する誰かがいる訳です。逆に云えば、人は多少の困難を抱えていても、人間関係さえ絡まなければ、さほど悩まないのかも知れないとさえ思えるほどです。

ではどうして、人間関係はこれほどまでに問題になるのでしょうか? それは、人はひとりでは生きていけない社会的動物だから、と云うだけは不充分です。そこを煎じ詰めれば 「人は外界(他者)を通じてしか自己を認識出来ない存在」 だからだ、という根源的な問題に辿り着きます。たとえば新生児は、はじめは自他を区別出来ず自己を認識出来ません。それが親や外界との交流を通じて<他>ではない自己を認識して行く訳です。そこまで云わずとも、人が自分の容姿を考える時には他者の眼に映る自分を想定する訳ですし、自己認識も他者の反応や他者との比較によって作り上げられる訳です。 「人からどう思われようが構わない」とは、なかなか行きません。

人は誰しも「認められたい」と願っている

話し相手14 人と接し関係を結んでいくのが苦手だと感じる場合、特によく云われる場面に次のようなものがあります。「中途半端な知り合いが苦手」 「とりとめのない雑談状況が苦手」 「3人状況が苦手」 「3~10人位の小集団が苦手」 etc. 考えてみると、これらには共通している点があります。それは、自分の評価が不安定な状況だと云うことです。どう見られるかが気になる状況……。と、こう書けば 「人付き合いが苦手」と云いつつ、 「人から良く見られたい」 「受け入れられたい」 「傷つきたくない」 だけなのではないか? と云われそうですが、実は、それこそが重要なのです。人は誰しも 「承認欲求」 を持っています。人から認められたり、尊敬されたいと云う欲求です。マズロー,A.H は人の潜在的な欲求を5つの階層に分け、低次から ①生理的欲求②安全欲求③社会的欲求(受け入れてくれる仲間や集団を求める)、④承認欲求⑤自己実現欲求 と提唱し、承認欲求を上から2番目に位置づけました。なにせ 「人は<他者>を通じてしか自己を認識出来ない」 のです。そうした承認欲求が脅かされる状況は誰だって当然に苦手なのです。認められないのではないか、と怯えるのも特別なことではないのです。

適切に自分を表現できない、何故か消極的になってしまう、逆に攻撃的になってしまう、あるタイプの人とはどうしても上手くいかないetc. と悩むとき、まずは、心の底にある欲求を受け入れる事が大切です。「嫌われたくない」「認められたい」「認めさせたい」「愛されたい」etc. 普段は意識されない自分の潜在的な欲求が対人関係を不自由にしているかも知れないと云う事を。そしてそれは特異なことでも何でもないのだと。具体的な人間関係で悩んでいるのだとしても、そうした自分を受け止めたうえで、判ったうえでの方が、関係を見詰め直したり、新たな対処もし易くなるはずです。もちろん、有り余るほどの 「承認」 と 「愛情」 とを受けて育ち、状況に左右されない確固たる自己を確立しているならば、対人関係などには悩まないでしょう。が、そんな人間はいません。多かれ少なかれの違いに過ぎないのです。また、この視点は、逆に、大切な人を 「愛せない」 「受け入れられない」 などと云ったケースを考える場合にも有効なのではないかと思われます。

無意識の信念や認知の傾向を見直してみる

話し相手15 ところで、対人関係、人間関係と云う以上は関係性の問題でもあります。そうであれば、コミュニケーションの問題として対応出来る場合もあります。端的な方法として、付き合い方や話し方を変更して対人関係が改善することは幾らでもあります。ただ問題は、渦中にある自分には変更方法が見えにくいと云うことです。その意味では、<対話>を通じて誰かしらの外部の視点を導入するのは有効です。いま仮に 「どうやら自分はAさんから嫌われている」 と云う悩みがあったとします。その理由としては 「Aさんは今日も昨日も挨拶を返してくれない」 「先日Aさんの前で詰まらない事を云ってしまった」 が挙げられるとします。この時、果たしてこの因果関係が適切なのかどうかを 客観的に検討してみる事は重要です。さらにこの 「状況(理由)」 からこの 「考え(嫌われた)」 に至る背景には、無意識の思い込みがあるかも知れません。たとえば 「自分は無能だ」 と云う信念を、本人も気付かず持っていたとすれば 「嫌われた」 と云う 「考え」 も生じやすいでしょう。そして 「嫌われるのは悪いことだ」 と云う信念まで揃えば、悲しい、つらい、気不味いなどの「感情」を生むでしょう。ですが、<対話>によって、こうした因果関係や潜在的な信念の適切さを見直すことで、付き合い方や話し方を変更出来るかもしれません。

このように言動には信念や認知が影響しています。「誰からも愛されねばならない」 「何事も完璧であるべきで失敗は許されない」 「思い通りに事が進まないのは致命的なことだ」 「人を傷つけるのは良くないしそんな人は責められるべきだ」などは代表的な非合理的な信念です。こうした無意識の信念や認知に気付いたり書き換えるのに<対話>が貢献します。「悩みがある」 にも書きましたが、「状況」 から 「感情」 が発生する訳ではありません。相手の行動や発言、互いの関係を、自分がどう捉えているか(認知)によって感情は引き起こされます。その認知が適切かどうかを確認し修正を加えて行くことで関係が楽になって行くことも多々あるものです。

人は日常を営むなかで 「人」 に悩まざるを得ません。それは原初的な宿命です。さらに、人は誰しも絶対の肯定的関心のもとで育つ訳でも、正確に周囲との関係性を把握している訳でも、適切なものの考え方をしている訳でもありません。人は人に傷つきます。けれど、癒されるのも、人によって癒されるものです。<対話>を通じて穏やかにそれらを眺めてみることは、取り巻く人間関係を自分にとって生き易いものへと変えていくのに役立つはずです。