過ぎ去った事でありながら、その記憶に苦しめられることがあります。思い出したくもないのに、その感情が甦って来ては、まるで昨日のことのように苦しめられることが……。忘れたいのに忘れられない記憶。そのつらさから逃れ、少しでも穏やかなものへと変え、心のなかに収めるには……。

それでも、やはり過去は変えられない……。

誰にだって忘れられない思い出と云うものがあるでしょう。それが嬉しい思い出ばかりならば良いですが、そうとばかりも行かないのが世の常でもあります。嬉しいとまでは行かなくても、甘く切ない思い出なら、その苦しさも 「ほろ苦い」 で済むでしょうが、「思い出したくもない」 「忘れてしまいたい」 「なかった事にしたい」 つらい記憶に苦しむことも、時として人にはあります。
話し相手16
裏切り、過失、事故、背徳、あるいは犯罪被害、不意の死別……etc. 望むと望まざるとに関わらずに訪れた悲劇もあれば、自らの至らなさが招いた災厄もあるでしょう。思いもよらず逆の結果、と云ったものだってあるでしょう。 「過去と他人は変えられない」 と云われますが、そんな一般的な言葉を拒むほどの、深刻な思い出が時として人にはあります。だか、しかし、それでも、やはり過去は変えられません……。

心のなかのしかるべき場所に収めていくために

そうして負った心の傷は、治癒して消えてなくなると云った類のものではありません。何故なら、傷を負わせた出来事や、傷そのものは、記憶として、当事者の心のなかに残り続けるからです。では僕たちは、過去の記憶に、心の傷に、苦しみ耐え続けねばならないのでしょうか。傷が癒えることはないのでしょうか。ある意味で 「傷は癒すものではない。忘れるものだ」 と云う事も出来ます。何故なら、傷が消えない以上、癒えた状態とは、当事者にとって傷が問題はではなくなった状態、と云わざるを得ないからです。話し相手17忘れたかのように痛まない状態。あるいは、忘れることなど出来ないにしても、心のなかのしかるべき場所に収め、時を経てノートの頁をめくる様に悲しめる状態とでも云えば良いでしょうか。 そして、忘れられない記憶が苦しいと云うことは、少なくとも、そこへと至る端緒には既についている、と云えます。何故なら、その記憶を無意識へと押しやったりせずに現実の過去として向き合っているから苦しいのです。きっと、そこへと至る道のりは、思い出したくもない、忘れてしまいたい記憶を、感情を、心のなかで反芻し、消化し、受容して行くプロセスを辿ることでしかないのでしょう。それは記憶に新たな意味を付与する事かも知れませんし、相対化し一般化していく過程なのかも知れません。

「死の受容 5段階モデル」 と 「悲哀の仕事」

また、その道程は次の様なプロセスと似ているかも知れません。もちろん事態としては異なる訳ですが、受け入れ難い事柄を受容していくと云う点においてです。ひとつはキューブラー・ロス.Eが提唱した 「死の受容 5段階モデル」。人は限られた余命を知らされると、次の5つの段階を経るなかで、それを受け入れるに至るとされました。

<死の受容 5段階モデル>
第1段階 【否認】 : あまりの衝撃に感情的になり、その事実を否認している段階。
第2段階 【怒 り】 : 死ぬという事実は認識しても「どうして自分が?」と怒りに駆られる段階。
第3段階 【取引】 : 人智を超えた超越的な存在にすがり死を遅らせて欲しいと願う段階。
第4段階 【抑鬱】 : 死の回避が出来ない事を悟り悲観と絶望とのなかで抑うつ的になる段階。
第5段階 【受容】 : 生命の消滅を自然の営みの一部として受け入れ自らの死を受容する段階。

これらの過程は行きつ戻りつしながら進行して行くと云われます。ある時は怒りに駆られたかと思えば、次の日には落ち込み、覚悟ができかと思えば、再び怒りが込み上げる、と云った具合に入り混じりながら受容に至ると云われます。そしてもうひとつは、小此木啓吾がフロイト.Sを援用しつつ提唱した 「悲哀の仕事」 のプロセスです。大切な対象を失ったとき、人は次のような心的過程を辿り、それを自然な形で体験し続け、心に収めていくのが悲哀の仕事の達成だとされています。

<悲哀の仕事の心的過程>
1.【衝撃と不安】 : 愛する人を失った衝撃と不安とに襲われる。
2.【思慕と執着】 : その人を心のなかに再生しようとする。
3.【再生・理想化】 : 失った相手を自分のなかで理想化する。
4.【同一化】 : 自分を相手に重ね合わせる。
5.【悔みと償い】:良い関係だけが想起され自分の行為を悔やみ償いたい心理が起こる。
6.【怯え罪悪感】:生前、相手に対して抱いていたネガティブな感情に起因した罪悪感に怯える。

記憶と云う意味では 「悲哀の仕事」 のプロセスはここでの道程により近いのかも知れません。悲しみを悲しみ、苦しみを苦しみ、悔みや怨み、罪悪感をも体験し続けて行くことが悲しみの仕事の達成だとされます。もちろん容易な営みではありません。小此木(1979)はこう述べています。この苦痛から逃れる一つの道は、死者への思いを誰か良い聞き手に語る事である。悲しみをともにし、怨みつらみを訴え、死者への自責やつぐないの気持ちをわかち合ってもらいたい

少しでも心が軽くなるのなら

話し相手18もちろん、つらい記憶は死別だけではないし、死別の心的過程にしても、これだけではないかも知れません。ですが、いずれにせよ、たとえばこうした過程を、反芻し、消化し、受容して行くプロセスを辿る事でしか、それを適切な時に適切に悲しめる状態には、至らない様な気もします。無論、平坦な道ではないでしょう。けれど、それでも僕たちは少しでも解放されたいのです。その苦痛から。

そうした時、やはり<対話>が助けになるのだと思います。語源的に 「話す」 は 「放す」 に繋がり、心の 「わだかまり」 や 「結ぼれ」 から解き放たれる事もあるものです。人は話す事でそれを再体験し、感情が整理され、自然な形での体験の受容が促される……そんな作用が<対話>にはあります。と云えば綺麗ごとに聞こえかも知れませんが、つらい記憶の受容の道は、また、つらい道程でもあります。気持ちを分かち合って貰う伴侶をともにしたって悪くはないでしょう。それで少しでも荷が軽くなり、心が軽くなり、足取りが強くなるのなら。

<文献>:小此木啓吾(1979):「対象喪失」 中公新書