胸の奥がざわつき落ち着かない。心細いような、それでいて焦るような……。と云って、自分でも何が不安なのだか判らない。ただ訳もなく不安、と云った気分に襲われたことはないでしょうか? なんとも不快な感情ですが、こんな不安を和らげるのに<対話>が役立つ事もあります。

そもそも不安とはどこか漠然とした感情である

頻繁に言葉にされるわりに 「不安」 と云うのはどこか捉えどころのない感情です。しばしば 「理由のない不安」「理由のある不安」 などと云った云い方がされますが、話し相手19たとえば、健康が不安、業績が不安、と、明確な対象があるような場合でも、そこには、どこかしら漠然とした雰囲気が漂っています。しかも、だからと云って淡い感情かと云えばそうでもありません。いても立っても居られないほどに不安だと云う事は良くあるし、簡単には失くならず常に心のどこか居座っていると云う事も良くあります。なんとも厄介な不快で苦しい感情だと云えるでしょう。

心配事を抱えている時の不快な感情は、明らかな対象があると云う意味では 「恐怖」に近いのかも知れません。一方、対象を持たない 「恐怖」 だとも云われる不安の場合 「何が不安かと訊かれても困ってしまう」 「不安だけが常にある」 「うまく言葉で表現できない気分」……etc.と云った事態はありふれていますし、心の内から突き上げてくる、今にも何かが起こりそうな、表現し難く、他者に判って貰えなそうな感情です。それ故、孤独感とも結託しやすいし、他方では、動悸や過呼吸などの身体の不具合とも結びつきやすい特徴があります。しかも、誰にとっても身近に感情であるのが悩ましいところです。

自分の存在の安定が揺さぶられるとき

話し相手20 そう考えると、僕たちが不安に苛まれるとき、当面、差し当たり何らかの不安の対象、つまり理由があったとしても、そして、それが自分でコントロール出来ずに対処不能なときに出現しやすのだとしても、その根底にはもっと深い源泉がある様にも思えてなりません。

それは、良く云われるように、母体から出産・分離された人間の 「<個>である事の不安」 だったり、絶対的に無力な存在の 「親の愛を失う不安」 だったり、あるいは、自分が死ぬことを知っている唯一の動物である人間の「死への不安」だったりを、その起源にもっているのでしょう。そしてそれは云い換えれば、 「自分の存在の安定が何らの事柄によって決定的に揺さぶられるときに生じる感情」 と云う事ではないでしょうか。僕たちにとってそれは往々にして 「対人関係」 であろうし、相容れない2つの思いの「無意識の葛藤」 だろうし、「認めたくない自分の心の在り様」 かも知れなければ、先の見えない「将来のこと」 でもあるでしょう。

訳もない様な不安を和らげるために

話し相手21 こうした不安を和らげるのに、まずは差し当たり一般に云われるように、呼吸法や音楽やアロマあるいはヨガや瞑想などのリラクゼーションも良いでしょう。なんらかの負荷に晒されているから不安な訳であり、その心身の緊張を解いていくことは不安の低減にも貢献するはずです。もちろん休養だって必要でしょう。

同時に、なにより自分の不安な感情を受け入れることも大切です。「こんなはずはない」「どうしよう」「弱いから不安になるんだ」 「落ち着きたい」etc. と感情に翻弄されるのではなく、不安を感じている自分を認めてあげる。そして不安の正体に眼を向けてみる。自分は何を不安を感じているのだろうか、と改めて問うてみれば、結局、対象は何もなかったと云う事になるかも知れません。それこそ訳もない不安な訳ですが、正体のないことが判ったことで落ち着きを取り戻すこともあります。この過程において<対話>は大いに役に立つでしょう。さらに<対話>には、話すことで気持ちを 「分かち持って」 貰うと云う効能のもあります。理由の判らない不安、人に理解されづらい不安を 「分かってもらうこと」 は、不安の重荷を半減させるのではないでしょうか。

と云って、それだけでは拭い難く付きまとう不安もあるでしょう。そのあたりを手掛かりにして、さらに内面と向き合い、自分の感情を整理したり、気付いたり、受け入れたり、パーソナリティの傾向を理解したりすることが必要な時が来るかも知れません。自分の存在の安定は、いったい何によって揺さぶられているのか……。<対話>の効能には、自分が見えてくると云うのもあります。話しいているうちに、ひとりでは見えなかった自分の内面が見えてきたり、記憶が甦ってきたり、発想が湧いてきたり、考えや気持ちが整理されたり、と云う事がしばしばあります。得体の知れない不安をひとりで抱え込むよりは幾分は楽なのではないでしょうか。