この息が詰まるような生きづらさはなんだろう。そう感じた事はないでしょうか?自分はこれでいいのだろうか?と感じてみたり、自分だけが違っていると疎外感に苛まれたり、自分が場違いなところにいる様に感じたり、そんな事はないでしょうか? けど、それは、あなただけではないのかも知れません。

この世界に存在することの違和感

自分を取り巻くこの世界に最初に違和感を感じたのはいつだったでしょうか? 上手く言葉に出来ないながらも、云い様のない生きづらさの様なものを感じたのは、たとえば僕の場合は思春期から青年期にかけての頃だったように思います。中学から高校、あるいは大学前半の頃だろうか。話し相手22もちろん楽しい季節でもありました。けれど同時に、息が詰まるような閉塞感と理不尽さと、そこに自分がいることの違和感の様なものを、感じ続けていたように思います。

それは確かに 「生きづらさ」 と云うより他に上手く表現できない感覚です。と云って、病気を抱えていたり、家庭の事情に不具合があったり、迫害を受けていたり……etc.と云った具体的な事情による生きづらさではありません。当時はそんなことを思いもしませんでしたが、今になって思えば、その時期と云うのは、「同性同年輩の親密な友人づくり」 だったり、「性的成熟 」や 「他者から見られる自分の身体」 と出会ったりする時期です。そしてもちろん 「自分とは何か」 の問いも訪れます。そうした違和感であり生きづらさです。何気ない日常のなかで、日々の出来事に振り回され、突き上げる衝動に背押されながら、流されるように過ごしてはいたものの、実は、そんな問題に翻弄されていたが故の 「生きづらさ」 だったのかも知れない。と、今ならそう思う事も出来ます。けれど、こうした生きづらさは、別に青年期の専売特許ではありません。

自分らしい自分で世界と折り合うために

大人になったからと云って、似た様な生きづらさに捉われることなど、僕たちの日常にはありふれています。 職場における「同調圧力」に悩み、ウンザリする事はないでしょうか。逆に、自分は周りの人と明らかに違って特殊であり孤独を感じる事はないでしょうか。あるいは、別に何をされる訳ではないけれど、所属する組織にどうしても馴染めない、話し相手23だったり、この世界に自分の居場所などない、そう漠然と感じるする事があるかも知れません。また、今の生活は 「本当の自分」 なのだろうか、と悩んだり、周囲に理解されない孤独に喘ぐかも知れません。

社会的動物であると同時に、他者を介してしか自己を認識出来ず、かつ、他者からの承認を要求せざるを得ない人と云う生き物は、こうした実存的な苦悩と無縁ではあり得ません。陳腐な云い回しで気恥ずかしい限りながら、それは 「自分探し」 的なアイデンティティ(自我同一性)の問題とも云えるのでしょう。それは不可避でありながら、この部分における生きづらさを抱え続けるのもまた苦しいものです。けれど、僕たちに出来る事はと云えば、全体から分離され、誰とも異なる自己の存在の孤独と闘いながら、取り巻く世界を少しでも自分にとって生き易いものへと捉え直す(認知的世界を再構成する)こと、また、当面の納得がいく自分を獲得するぐらいのことなのではないでしょうか。さらに、それが簡単に出来るのなら 「生きづらさ」 など感じたりはしません。とは云え、他者によって脅かされた心性の乱れを回復させるものまた他者である、とも云えます。

それは貴方だけではない

話し相手24<対話>には自分を客観的にみる契機が得られると云うメリットがあります。たとえば、誰かと話しているうちに、自分が考えていることや、自分の特徴が良く判った、と云うことはないでしょうか。あるいはまた、話しているうちに、自分があまりにも偏った考えに陥っているのに気づいたと云う事はないでしょうか。さらには、思っていたほど特別でもないと自分を相対化出来たことはないでしょうか。「本当の自分」 そんなものは何処にもない訳ですが、<対話>は関係性のなかにある自分を同定するのに貢献するでしょう。周囲との関係の取り方に新たな視点を得るかも知れません。そして、それよりなにり、誰にも理解されないと思っていた感性を分かって貰えたならば心強くはないでしょうか。

もちろん 「対話」 が万能な訳ではありません。と云って、この様な 「生きづらさ」 をひとり抱えて苦悩し続けると云うのも過酷です。万能ではないかも知れませんが、少なくとも <対話> には、その重荷を分かち軽くする機能はあるだろうし、自分自身を見詰め直す契機ぐらいは秘めています。世界を変える事など出来ないのでしょう。けれど、どうなもならない世界を自分にとって生き易く捉え直すことは無意味ではないはずです。