話し相手20160923

1分1秒を無駄にせず大切に生活したい……と云う様なことを良く耳にする。たとえばオリンピックで試合を終えた選手が4年後に向けてと云った様な場合だ(実際にそんな発言があったかどうかは定かでない)。あるいは大きな病気にかかった方がそう語る場合もあるかも知れない。そんなことをしたら疲れてしまうだろうに……とは思うが、、一方で意味深いことだとも思う。

と云うのは、「我々は永遠に生きられるかの様に今を生きている」 と云う指摘が、僕たちの日常を語るうえで実に的を得ていると思うからである。「いつかやろう」 「明日やればいい」 「春になったら」 「そのうちに」……いやそうでなくても、陽が沈み、夜が更けて、陽が昇れば、また明日がやって来ることを、普段、僕たちは疑う事をしない。だが、この認識が正しくないのは改めて語るまでもない。

「死は生の対極にあるのではなく、その一部として存在している」 とは 「ノルウェイの森」 における村上春樹の言葉だが、もちろん、人はいつ死ぬか判らないのである。また、人は必ず死ぬのである。つまり、死は、次第に徐々に近づいてくるものではなく、常に生の根底にあって、生にそこはかとない不安を与えているのだが、ふだん僕たちはそれを忘れている。いや忘れようとしている。

もし、自分が明日死ぬとわかっていたら……どうだろう? 今日と云う日をどう過ごすだろうか? あるいは明日と云わずとも、死をありありと身近なものとして捉えたなら、その過ごし方は違ってくるだろうし、考え方や生き方は変わってくるだろう。つまり死を念頭におくことによって、今まで気付かなことに気付くこともあり、また、死を意識することが生を大切に生きることに繋がる訳である。

大病をした人が性格が変わったようになり、生活が変わったり、事故に遭って生死の淵を彷徨った人が、考え方が変わって生き方が変わったり、と云う様な事が良くあるのは、おそらくは、「永遠に生きられるかの様に今を生きていない」 からなのだろう。そして、1分1秒を無駄にせず大切に生活すると云うのも、また同じことなのだろうと思う。とは云え、身体に休養を与えたり、心を休めたりするもの、今を大切に生きる事のひとつではある。


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