話し相手20161017

現在、取り組んでいる事柄だったり、付き合っている人だったり、あるいは使っているモノだったり……そして、それらが自分にとって、あまり好ましくない、弊害になっている、実は無駄である……と漠然と感じていたり、薄々気づいていたりしながら、やめられない、続けてしまっている、そんな事はないだろうか?

「最後までやってみなければ判らない」 「やり方が足りないのだ」 「まだ自分が未熟なだけで本来は有益なことだから」……etc.そう自分に云い聞かせ、良好な結果や、心地良い思いをしていないにも関わらず、それらに、いたずらに時間を費やしている。そんな事はないだろうか?

こうした事態に有効な考え方として、「ゼロベース思考」 と云うものがあるらしい。つまり、「もし、それをやっていないとしたら……それでもやりたいことなのか」 「この人と付き合っていなかったとしたら、それでも付き合いたい人か?」 「この仕事をやっていないとしたら、それでもやりたい仕事なのか?」 と問うてみる(ひすい,2005,名言セラピー)。それでも、やりたい、付き合いたいと思うのなら、それは今後も取り組むことに意味はあるのだろう。だが、そうではないのなら……。

自分を取り巻く状況や、自分の考え方、そして、自分の将来を選択するうえで、確かに、役立つ思考だと思う。そして、これを支える背景は、以前に紹介した 「認知的不協和」 の理論で説明できる。繰り返しになるが、この理論は 「人は自分のなかに相反する2つの認知 (信念、態度、事実、これまでの行動など) を抱えた状態 (認知的不協和 )に陥ると、不快感を感じ、これを解消するために自分の認知や行動を変更する」とするものだ。

この考え方で行けば、ここには、これまで取り組んできた事柄や付き合ってきた人などの「事実&行動」と、新たに提供された、好ましくないとか、弊害であるとか、無駄だとかの「認知」とが存在する。そしてこの2つの「認知」の間で不協和が生じている訳だ。一方の「事実&行動」には、それなりのコストがかかっている。それは、まずは時間だろうし、そして労力だろうし、また、金銭的な費用が掛かっているかも知れない。不協和を低減するためにこれを否定するのはあまりにも辛い。と云う訳で、否定されるのは後者の認知の方となり、「最後までやってみなければ判らない」「やり方が足りないのだ」「まだ自分が未熟なだけで本来は有益なことだから」……etc.の様な思考がなされ、ある種の縛りとなって行動が継続する。冒頭の状況とは、こうした事態なのだ、と説明出来るだろう。

こうしたバイアスから逃れるために 「ゼロベース思考」 は有効だろうし、それを裏付けるものとして、認知的不協和理論で事態を認識するのも有効だろう。だが、そうだとは云え、現実には行動を変えられない場合だってある。

投下したコストも含め、もはやある程度の成功を収めなければ立ちいかないとか、自分ではどうにもならない制約を抱え込んでしまっているなど、色々あるはずだ。だがしかし、そうであっとしても、やはり、事態とメカニズムとを認識しておく事は有用なのだと思う。仮に行動をやめることは出来ないにしても、事態を認識すれば、行動を改善することは出来るだろうし、微調整で状況が変わるかも知れない。気付かないで続けるよりは、遥かにマシと云うものである。


<文献>:ひすいこうたろう(2005)名言セラピー,ディスカヴァー・トゥエンティワン


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