20170216_話し相手

ここまで論理療法の基礎、その輪郭をみてきました。簡単に振り返っておきましょう。まず論理療法では、人の「感情」と云うものは経験した「出来事」から直接に沸き起こるのではない、と考えます。人はその様な「出来事」すなわち外界からの刺激そのままの「物理的世界」に生きている訳ではありません。人は経験した「出来事」を様々な形で受け止めます。同じ出来事であっても、それを経験した人の「信念/考え方」によって、その受け止め方(認知)は異なります。つまり、人は「受け止め方の世界/現象学的世界」に生きていて、その受け止め方(認知)によって沸き起こる「感情」も人によって異なるのだと考えます。つまり「(A)出来事」⇒「(B)信念/認知」⇒「(C)感情」と云う具合に「感情」は「信念/認知」によって規定されると云う訳です。ここまでを論理療法では「ABC理論」と云うのでした。さて「第5章 非論理的思考への反論」では、ここに「(D)反論」と「(E)効果」とが加わります。

第5章 非論理的思考への反論

ABCDE理論

たとえば「愛する人から拒絶された」と云う出来事に遭遇したとしましょう。この場合、

①私は愛する人から愛されるべきである
②愛する人から愛されないのは残念だが自分の全人格が否定されたわけじゃない

もし、①のような「(B)信念/認知」を持っていたとすれば、次に生じるのは、自分を否定的に決めつけ「落ち込ん」だり「憂鬱」になったり「不安」になったり、と云うネガティブな「(C)感情」でしょう。ですが、②のような「(B)信念/認知」を持っていたとすればどうでしょうか。たしかに「悲哀」は生じるかもしれません。ですが自分を否定的に決めつけることはないでしょうし、前向きに自分を反省したり、もっと自分と相性の良いパートナーを探そうとしたり、少なくとも絶望的な「(C)感情」に陥ることはないでしょう。

もちろん、①は「非合理的・非論理的思考(イラショナルビリーフ)」です。そこで、この「(B)信念/認知」に対し、たとえば「愛した人から愛されると云う決まりなどない」「全ての人から愛される人などいない」「たまたま相手の好みに合わなかっただけで他の人はあなたを高く評価するかも知れない」等々の「(D)反論」を行い、たとえば②のような「論理的思考(ラショナルビリーフ)」に書き換える。すなわち、拒絶された悲しみはありつつも、絶望的にならずに前を向ける心理状態(感情)に変化させる。つまり「(E)効果」を得えようと云うのが論理療法です。この過程を「ABCDE理論」と呼びます。

ABCDE理論の検討

ここで「ABCDE理論」をさらに検討するために伊藤(1990)は、A.エリスの同僚であるハーパーが扱った、教養もあって有能なジェラルデインと云う33歳の女性のクライアントの事例を挙げています。彼女の訴えは、無責任で頼りなく神経症の疑いのある夫と離婚し、既に6ヶ月が経過したが、その結婚生活は全く不幸であったにもかかわらず、離婚以前よりも少しも幸福だと思えない。離婚は間違いだったのではないか?と云うものです。ハーパーはこのようなジェラルディンに対して、どうして離婚は間違いだったと思うのか?を問います。

「人間って一度結婚したらずっと一緒にいる『べき』だと思うのです」「私は離婚が悪いことだと感じて、離婚してしまった自分を責めているのです。あれ以来、私はあの夫と一緒の時よりもっとみじめな気がするのです」とジェラルディン答えます。ハーパーはさらに問います。「離婚は悪いことだというあなたの気持ちはどこからきているのでしょう」そして、感情と云うものは次第に身につけてきたものであり、人は成長の過程で様々なものを学習するが、偏見すらも身につけることがある。離婚に対する偏見もそのひとつだ、と語ります。そして、学習したものは忘れることも修正することも出来るのだ、とも。

これまでのジェラルディンの心模様を、パーパーは推論します「『離婚をするなんて、悪い人たちのすることだわ。そうです。私は自分が堕落した人間であることを承認します。私は悪い人間なんだわ』と」「くり返しくり返し、あなたはこの愚かしい台詞を自分自身にいいきかせ続けてきたのでしょうね」ハーパーの推論をジェラルディンは承認しました。けれど、そうだとして「どうしたらそれをやめられるのでしょう?」ジェラルディンは質問します。さらに、あんな男との結婚は間違いだったと認めざるを得ないではないか、と反論します。そこで、パーパーは元夫との結婚が間違いだったことを認めます。そのうえで「しかし、だからといって、あなたがその過失を生々しく背負って後半生を生きていかかねばならない、そういう罪に値するということになりますか?」と問い返します。このようにしてハーパーは、ジェラルディンの不幸な結婚生活を振り返りつつ「「離婚は悪いことだ」「過ちを犯したら罰せられねばならない」と云うジェラルディンの信念を反駁していきます。その結果、と云って、まだ途中ではあるのですが、二人の次のような対話が生まれます。

「不幸な状況が自分をみじめな気持ちにするのは当然だ、というあなたの考えが間違っているのですよ。けっして状況そのものによるのではなくて、あなたの心の乱れは、その状況についてあなたが自分に語る文章からきているのです」と云うハーパーに対して、ジェラルディンが応えます。「あなたのお話がわかってきました。たしかに私の結婚生活は楽しいものではなかったけれども、それが原因で今もつらい生活をする必然性はない、といいたいのですね」。徐々にではありますが、ジェラルディンの心理が変化してきた、と云う訳です。もちろん対話はこの後も続いて行くのですが。

この面接過程を「ABCDE理論」で振り返ると次のようになります。

(A):離婚「出来事」
(B):離婚は悪いこと。自分は悪い人間。みじめな気持ちになって当然「信念」
(C):毎日が不幸でみじめ「感情」
(D):離婚は悪いことでそれによって不幸でみじめになっていると云う信念への「反駁」
(E):イラショナルビリーフに気づき、その書き換えの準備が出来る「効果」

「べき思考」と絶望的な不幸感

「(A)出来事」⇒「(B)信念/認知」⇒「(C)感情」⇒「(D)反論」⇒「(E)効果」という論理療法の過程をみてきました。ですが、ここで、伊藤(1990)は「絶望的な不幸感」について言及し、論理矛盾に陥ります。それは絶望的な不幸感の背後には、ねばならないとかあるべきであると云った『べき思考』が存在しているのである論理療法は、『べき思考』を排除することによって、絶望的な不幸感を取り除くことが出来ると主張する(伊藤,1990)、そして「抑うつ」「不安」に陥るとき、多くの人が似たような状態を示す、と云うことを述べようとしてのことです。もちろん、このこと自体は矛盾などしていません。「ABCDE理論」に従って、イラショナルビリーフをラショナルビリーフに書き換えることによって「絶望的な不幸感」を変容させることが出来ると云う主張ですし、また、「抑うつ」「不安」に陥った人がよく似た状態を示すことは、後に認知療法のA.ベックも「否定的認知の三徴」として指摘しています。ただ伊藤(1990)は次のように述べます。

ある一定の規則に従っていれば、いつでも幸福でいられる。そんな規則を提唱しようとする人は、結局愚かしいことをいっているにすぎない。そのことは十分ふまえた上で、なお、決して絶望的な不幸感を感じないですむ技術があることをあえてここでいっておきたい。それは矛盾したことであろうか?見かけ上はそうかもしれないが、事実はそうではない

『なんですって、それではたとえば私の母が亡くなったり、私のつれあいが私を捨てたりしたそんな時でさえ、私がひどく不幸になったり、ゆううつになることはない、といいたいのですか?』という抗議が聞こえてきそうである。ところがわれわれはまさにそのように考えているのである

さすがにこれは云い過ぎです。人が常に幸福でいられる一定の規則と述べていますが、見かけ上で矛盾しているのなら、それは矛盾しているのです。親族の死やパートナーとの離別に際して不幸を感じたり憂鬱になったりするのは、云うまでもなく自然なことです。論理療法は「(A)出来事」に対する「(B)信念/認知」を書き換えることで「(C)感情」を変化させることが出来ると主張しているに過ぎません。

伊藤(1990)はこの矛盾を解消するために、けれども、人は率直に悲しみ、苦悶の中に身をおくことが望ましい場合もあることを付け加えておかねばならない(伊藤,1990)として、「ラショナル(合理的)な感情」と「イラショナル(非合理的)な感情」と云う考え方を導入します。つまり「感情」を二種類に分けたのです。たとえば「悲しみ、嘆き、煩悶、残念」と「不安、憂鬱、羞恥、激しい怒り」との違いだと述べ、喪失感あるいは悲しみの感情というものは、自分がこうむった損失に対するいわば適切な反応であるといえるのに対し、激しく怒ったり逆に沈滞してしまうことは、ふさわしい反応ではないと。先の抗議で云えば、喪失感や悲哀は「ラショナルな感情」であり、不幸感や憂鬱は「イラショナルな感情」であり、ある一定の規則に従っていればそれに陥ることはないと云う訳です。

人がある出来事に出会ったとき、ラショナルな不幸感の範囲で悲しむ場合と、絶望的な不幸感に陥るケースの相違と伊藤(1990)は云います。確かに、悲しむべき事柄を適切に悲しめる状態というものはあります。ですが、その悲しみに捉われ、それしか考えられなくなることだって人にはしばしばあります。またその悲哀から抜け出せなくなることも。そうした場合、それは「ラショナルな感情」であり自然なことだから構わないと云うのでしょうか? また喪失の出来事に対して「不安」や「憂鬱」の感情を抱くことだってあるでしょう。それは必ずしも「イラショナルな感情」だと云えるのでしょうか。「感情」に善悪などありません。このように「感情」を二種類に分類することに意味があるとは思えません。「悲しみ」「嘆き」「煩悶」「不安」「憂うつ」etc.それらが当人にとって苦痛なのかどうかが問題なのであり、論理療法の考え方でいけば、それらは「(B)信念/認知」を書き換えていくことでニュアンスを変えることが出来る、それだけで良いのではないでしょうか? そして、時として「認知」の書き換えには、時間が必要なこともあれば、誰かの助けが必要なときもあるのだと、そういう事なのではないでしょうか?

では、矛盾を抱えてまで伊藤(1990)が述べたかったことは何なのでしょうか。それは「絶望」は人から未来と将来とを奪うと云うこと。そして「絶望的な不幸感」の背後には往々にして「ねばならない」とか「べきである」と云った『べき思考』が存在しいること。さらに、論理療法は「絶望的な不幸感」に陥らない、あるいは脱出する技術として有効であると云うことなのだと思います。


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【文献】
伊藤順康(1990)「自己変革の心理学」講談社現代新書


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