メサイア・コンプレックス

最近に限らず僕の脳裏をしばしば掠め、そして決して忘れてはならないと思う事がある。「傾聴」 でも 「愚痴聴き」 でも 「話し相手」 でも 「カウンセリング」 でも何でもよいのだが、こういう活動を行う者としては極めて重要な事だと思うので、自戒の意味も込め最初の記事として書いておきたいと思う。

「メサイア・コンプレックス」と云う言葉をご存知だろうか?

共依存について語る文脈で登場する事の多い心の 「結ぼれ」 の事だが、例えば、Wikipediaでは次の様に定義される。“個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める”。ちなみに 「共依存」 はと云えば、“相手に必要とされることによって自分の存在意味を見い出したり、献身や自己犠牲の結果として相手を支配する様な人間関係への依存をいう”(メンタルケア用語辞典)となっている。まあ、ほぼ同義とも取れる。

ここでの様な活動に携わろうとする者には、人それぞれの動機があろうが、多かれ少なかれ 「他人の役に立ちたい」 が含まれているだろう。そうでなければ好き好んで他人に関わり、その人にとっての好ましい状態への変化を願ったりはしないはずだ。もちろん人の役に立つ活動は他に幾らでもあるが、こうした活動もその一種には違いない。

だが、どうしても考えてしまうのである。「他人の役に立ちたい」 と云えば如何にも崇高で、社会への貢献と云った印象があるが、そこに付き纏うある種の 「いかがわしさ」 の様なものを。その正体は何かと考えてみれば、先に述べた 「メサイア・コンプレックス」 ではないかと思う。つまり人のためではなくて、自分のためではないのか? 極端な云い方をすれば自己満足、自分の自尊心の充足。如何にも清潔な上着を纏った一種の偽善。

と、ここまで悪く云う必要はないだろうし、そんな事を云えば 「他人の役に立つ」 仕事をする人々やボランティアの方々が皆そうなのか? となる。だが、そんな事はないだろう。むしろ重要なのは、こうした活動に携わるの者は 「メサイア・コンプレックス」 と云った側面に、自覚的でなければならないと云う事である。そして、自己の肯定感を自身によって獲得する事。加えて、相談者なり話し手なりクライアントの方達に、教えて頂いているのだ、と云う姿勢を忘れない事ではないだろうか?

今後も肝に銘じておきたいと思う。


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