傾聴_20160325

皆さんと一緒に、「改訂版 アサーション・トレーニング 」(平木典子 著)を、ここまで 「第1章 アサーションとは」 「第2章 人権としてのアサーション」 と読み進め、「自己表現の3つのタイプ」を確認し、5つの「自己表現する権利」について知りました。今回は、「第3章 考え方をアサーティブにする」 です。これは、先にみたアサーティブになるのを妨げる6つの要因のうちの4つめにあたります。

「第3章 考え方をアサーティブにする」

この章では、日頃の私たちのモノの見方や捉え方、考え方がどうなっているのか、そしてそれは、アサーションにどの様な影響を与えているのか、が検討されています。平木(2009)は アサーティブな言動には、ものの見方、考え方が影響 します。 人は自分の考え方やものの見方にもとづいて行動しますから、考え方がアサーティブでないとアサーティブな言動は出来ない と述べています。が、はたしてそうなのでしょうか? 人は感情の動物だと良く云われるではないですか。

「感情」は出来事ではなく「認知」や「思考」によって引き起こされる

一般に、人は失恋すれば悲しくなる、と考えられています。ですが、本当にそうでしょうか。平木(2009)は、ここで論理療法の A.エリス の「ABCD理論」を援用して説明します。良く使われる 「恋愛」 の例は少し飽きてきましたので、ここでは「試験」で考えてみます。

期末試験でも就職試験でも資格試験でもなんでも良いのですが、ある人が、とにかく、試験で悪い点をとったり落第したとします。その人は、悲嘆に暮れたり、悲哀に沈んだり、あるいは死んでしまおうと思うかも知れません。これだけをみると、あたかも「(A)試験に落ちた」ことが「(C)悲哀や抑うつ」を引き起こしたかの様に見えます。つまり「(A)出来事」 → 「(C)感情・行動」。けれど、もし、その人が、学校の成績なんてどうでも良いと考えていたり、人生において良くある事だと考えたりする人だったらどうでしょうか。悲しみに暮れるでしょうか。死にたくなるでしょうか。

つまり同じ「試験に落ちた」と云う 「出来事」 でも、人によって湧き起こる「感情」は変わってくると云う事です。その違いは何でしょうか。この例で云えば、「試験に落ちる事など許されない/どうしても受からなければならない」 vs 「まあ人生にはそう云う事もある/今回は少し努力が足りなかっただけ」との違いでしょうか。云うまでもなく、これは考え方や認知 (モノの見方) の部分です。だとすれば「感情」は「出来事」によって規定される訳ではなく「認知」や「思考」によって決まってくるのではないでしょうか。

「(A) 出来事」 → 「(B) 信念・思い込み」→「(C) 感情・行動」

A.エリスは「認知」や「思考」のある部分を「 Belief(信念)」と呼び、この部分が変化する事で、感情や行動も変わって来るとしました。もちろんBelief(信念)には、合理的な信念(ラショナル・ビリーフ:rational belief) と非合理的な信念(イラショナル・ビリーフ:irrational belief) とがあります。この「非合理的な信念」を「(D) 論駁・論破」 によって変更することが出来れば、その人にとって、より快適な感情や行動に繋げられる、と考えたのが、A.エリス の「ABCD理論」です。

では、アサーションを妨げる非合理的な思い込みには、どんなものがあるでしょうか。主なものとして、平木(2009)は5つ挙げています。

アサーションを妨げる非合理的信念(イラショナル・ビリーフ)

人は誰からも愛され、常に受け入れられるようであらねばならない
あたりまえに人は誰しも承認欲求を持っています。愛されたいと願うのは当然です。ですがそれが『ねばならない』になると問題です(平木,2009)。人に嫌われまい、あるいは、気に入られようとすれば非主張的にもなるだろうし、相手によって言動も行動も変えねばならないので、自分の不安定になるでしょう。この思い込みを合理的にするには「人から好かれるにこしたことはないが、必ず好かれるとは限らないし、まして、好かれ『ねばならない』と云うことはない、と変える事です(平木,2009)。自分の方が間違っていると思えることは、修正すれば良いし、そうでなければ、他者とは異質な存在であると云う原点に立ち返り、異なるものとして共存を図るのが良い、と云うことではないでしょうか。
人は完全を期すべきで失敗などしてはならない
この考え方をしている人は、いつもものごとはきちんとしていなければならず、人は常に、最大限に能力を発揮し、適切に行動し、良い成績を上げねば認められないと思っています。したがって、失敗した自分、失敗した相手を責めます(平木,2009)。確かにこれでは、自分も相手も窮屈にしてしまうでしょう。楽しめる事柄も義務と化し、また相手の落ち度が気になれば、過剰な配慮で相手の依存を強め自立を妨げることにもなりかねません。ここでは、アサーション権Ⅲを思い出すべきなのでしょう。
思い通りに事が運ばないのは致命的なことだ
この考え方をする人は、自分の思いと違ったことがおこるのを嫌います(平木,2009)。思い通りにならないことに遭遇すれば、それ自体をなかった事にしようとしたり、死んだ方が良いと考えたり、相手を変えようとします。そもそも人の人生において致命的などと云うことはそうそうありません。認知療法のE.バーンが云う様に「過去と他人は変えられない」わけで、これからの自分を変えたり、他人に依頼したりすることで、改善を図る方が賢明だと云えるのではないでしょうか。
人を傷つけるのはよくない。よって人を傷つける様な人は責められるべきである
この思い込みをもっている人は、人を傷つけまいと細心の注意を払っています。だから、傷つけるような言動に対しては、自分にも他者にも厳しくなります。この信念は、人を「責め」「非難」するときの、正当な理由として使われます配慮しながら、配慮のない人を責めたくなる心理(平木,2009)。合理的に書き換えるなら、たとえば「人を傷つけない方が良いが、時として傷つけてしまうことはあり得るので、その際は修復に努めよう」 と云ったところでしょうか。

危険で恐怖を起こさせる様なものの前では不安になり何も出来なくなって当然だ
多くの人は「不安」をコントロールしたり、別のものに変えたりすることはできないと思っていて、不安なときはパニックに陥るものだと思ってはいないでしょうか不安は、そもそも非現実的な心配から起こります ですが、その多くは最悪の事態を想像した先取り不安が主たるものです。「どうしよう」 の内容は、致命的でも、回復不能でもないことが多いのです(平木,2009) と平木は云い「どうにかできる」と思うことが逃れるコツだと述べています。

どうでしょうか。考えてみれば耳が痛ところです。けれど「判っているんだけどね」と云ってしまえば、そこで終わりです。まずはここに挙げられたものだけでも意識化しておいて、それぞれを、一度、自分で合理的なものに書き換えてみるのも良いかも知れません。また「判っているんだけどね」 と失敗したとしても、A.エリスが云う様に「何があっても、それで致命的になる事は滅多に」ありません。そして私たちは、「私たちは誰でも過ちをし、それに責任を持つ権利がある」 と云う、アサーション権Ⅲを持っています。

アサーション

【文献】
平木典子(2009) 「改訂版 アサーション・トレーニング

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