話し相手_20160409

つい先日の夜だった。僕が東京を離れたという事情もあり、しばらく会っていなかった友人から電話があった。久しぶり聴いた彼女の声は懐かしかったが、内容はと云えば、ほぼ問い合わせに近いものであり、僕はその内容にふさわしいと思われる書籍を数冊紹介したのだった。

とは云え、もちろん互いの近況報告くらいはする。そうなれば、勝手知ったる旧友である。近頃の彼女の、ささやかな悩みが飛び出したりもする。〝いいでしょう。聴きますよ〟とばかりに耳を傾けた。不思議なもので、古い友人と云のは、たとえどれだけ会っていなくても一瞬にして当時の感覚に戻る。当然、一方的に聴く訳でもないので、そのなかには僕の話だって混じる。気が付いてみれば、電話は軽く二時間を超えようとしていた。

そして、気付いたのは時間の経過だけではなかった。耳を傾けるどころでない。既に話の主体は僕であり、最近の出来事の経緯や愚痴を延々と語っていたではないか……。こんな仕事をしていれば自分の心の状態のチェックなど出来いるつもりだったが、自分がこんなにもストレス的(?)なものを抱えていたとは思わなかった。時間の経過と語る主体の交代と。この状況に僕が気付いた直後に、不意に訪れた沈黙。それを破ったのは彼女だった。「どう? 少しはすっきりした?」

かつて、まだ若かりし頃、同門で共に学んだ同志である彼女の言葉に〝やれやれ、まいったね〟と苦笑する他なかった。だが、話し相手がいると云うのはこういう事でもあると思う。聴いてくれる相手がいるから語るのだ。それは何か特別にストレスフルな状況にいなくても同じだろう。些細な感情を吐露し、受け入れられると云うのは、この様に心地良いものなのだと改めて実感したしだいである。

その電話に関して云えば、普段は話さない久しぶりの相手、しかも当分は会う事もない相手、と云うのも作用していたのかもしれない。


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