話し相手_20160414

話下手で困る。上手く話したい。雑談が苦手。そんな話を良く耳にする。だが、演説やプレゼンを別にすれば、既に云い尽くされた事だが 「話し上手は聴き上手」 この言葉に尽きている様に思う。

そこで、今回は僕がお話を聴かせて頂く際の大前提と、話す事の意味について少し触れておきたい。もちろん、「傾聴技法」 云々と云う話ではなく、むしろ傾聴の前提とでも云うべき心構えの様なものと、自分を語る事の意味、そんな事柄である。

相手を尊重し否定せずに感情を理解する

ごく当たり前の事だが、否定したり批判したりすれば相手は話せなくなる。あるいは怒って云い返したり、傷ついたりと別の感情を呼び起こす事にも繋がる。会話すること自体で充たされる「自己充足的コミュニケーション」ではもちろんのこと、問題解決の為に考えを練り高めるタイプのコミュニケーションであっても、否定から入ったのでは話は深まらない。それよりもまず、相手を理解する事の方が重要である。そして更に、語られた感情に善悪などありはしない。「悲しいのでビルから飛び降りたい」 と云う語りでさえ、「悲しい」 と云う感情と 「飛び降りる」 と云う行動とは別物である。それならば、まずはその悲しみが理解されてしかるべきだろう。とは云え、当たり前の事が難しい。一度、全く相手を否定せずに話を聴く、と云う試みをしてみれば判るだろうと思う。

言葉の背後にあるものに思いを馳せる

だが、理解したことを相手に伝えなければ意味がない。それは 「相槌」 や 「頷き」 であるかも知れないし、相手の言葉を 「繰り返し」 たり 「心配なんですね」 と確認することかもしれない。また時には、相手の言葉を 「言い換え」 たり 「要約」 して伝え返すことかも知れない。いずれにしても理解した事柄や感情を相手にフィードバックしなければ、相手からすれば、こちらが聴いているのか、理解したのか、誤解したのか判らない。そしてフィードバックがあれば、こちらの理解がズレていれば修正してくれるだろう。つまりそれは 「私はこう理解したけれど合っていますか?」 と問う事と同じ意味を持つ訳である。ここで重要なのは、相手に伝えるかどうかは別として、語られた言葉や表情の背後にある意味に思いを馳せておくことである。本当の感情や思いが言葉にならないことなど幾らだってある。

感情や問題を明確にして行く応答を試みる

往々にして事態の当事者と云うものは混乱してるのが普通だし、冷静さを欠いたり、感情に絡め取られている事も良くある。また、自分の本当の気持ちに気付いていない事も。上記のフィードバックは、自分の考えや感情を客観的に視る手助けとなる。「自分はこう思っていたんだ」 「ああ云ったけど少し違う気がする」 と内省する事もあるだろう。また 「好きだけど憎らしい」と云った思いなら 「『好きだ』と云う気持ちと『憎らしい』という気持と、両方があるんですね」 と返されれば整理に繋がるかも知れない。「と、おっしゃいますと?」 「それはこう云う事ですか?」と質問され新たな気付きを得るかも知れない。語りつつもシックリきていない事を的確な言葉で言い換えられて 「それッ!」 となるかも知れない。いずれにせよ、解決の切っ掛けになったり、対話が深まる事に繋がるのではないだろうか。

語る事はカタルシス

と云う訳で、とかく話し方について云々されることが多いが「話し上手は聴き上手」と考えた時、僕が話を聴かせて頂く際に注意している大前提について触れてみた。ところで、自分を語ると云う事には、次の様な意味があると云われている。(1)相手に判って貰うために自分の考えを判り易くまとめようと無意識にするので、自分でも曖昧だった感情や思考が明確になって行く(思考構築)。(2)と同時に、表現する事はまた、自分自身の感情や思考を受容する事にも繋る(自己受容)。(3)そしてまた自分の過去の経験を語る事は、その体験とそれに伴う感情とを再び味わう訳で、それらを整理し受け入れていく事にも繋がる(感情再体験)。(4)最後に、見出しにもした浄化作用である。人は自分のなかの鬱積した感情、あるいは再起された感情を吐露する事で、それらの感情から解放されて行く(カタルシス)

話し相手に語ること。語ることそのものが宿す癒しの力を信じて、僕はこのような前提に立っている。だがしかし、それでも、誰しも自分にしか通じない言葉で話すところの他者を、本当にはわからないのかも知れない。だからこそ、日々わかろうと努め耳を傾けるのである。


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