話し相手20160415

話すことで少しでも気持ちが楽になり心が軽くなる。話す行為そのものが宿す癒しの力。だが 「話す」 ためには 「聴く」 相手が必要である。そのうえ、聞いているのかいないのか判らない様な相手に話したのでは意味がないし、自分のことばかり話したがる相手にはそもそも話すこと自体が困難だ。そこに求められるのは、たんなる話し相手でなく 「良き聴き手」 と云うことになるだろう。

では 「良き聴き手」 とはなんだろうか。僕はこの事について次の様に考えている。それは、話し手が心のうちを充分に表現できる様に、周到に配慮された 「傾聴」 に始まり、話せる状態を維持する援助を含め、話し手が本来持っている力を呼び覚ます様な 「対話」 を行える相手だと。話し手が、話したい事を、話したいだけ、話したいように、話せる相手。こう書くのは簡単だが、実はなかなか難しく、僕も不断に自分を戒めている。

さらに、次のような問題もある。では、その相手は誰がふさわしいのか、と云う問題である。話し手の日々の生活のなかに、その様な 「良き聴き手」 がいるのならばそれに越したことはない。と本当に云えるだろうか。僕達の生活は無数の関係性に取り囲まれている。家族、親類、友達、職場、学校、あるいはネット社会だってそうかもしれない。そうした関係性のなかで、話し手が、話したい事を、話したいだけ、話したいように話せるだろうか。

もちろん日常のなかで 「良き話し相手」 「良き聴き手」 を持っている事は素晴らしい事だと思うし、重要なのだと思う。だが一方で、誰にも話せない気持ちと云うのがあるのもまた事実だ。そうした場合、日常生活のなかでの関係性や(しがらみ)を持たない相手が意味を持って来るだろう。日常をともにしない知らない相手あり、かつ 「良き聴き手」 と云う事になるのではないだろうか。

加えて、「良き聴き手」 と云うのは往々にして、話し手が本来持っている力を呼び覚ますものである。それはある種のカウンセリング能力だと云っても良いいだろう。あるいは、対話を通じて語り手が抱える問題の、解決へ糸口を見い出すものだったり、対話のなかでさりげなくカウンセリング技法を展開するものでもあっても良いだろう。良き話し相手であるだけでなく、同時に、その様な 「良き聴き手」 に話すことの意味は、大きいはずだと僕は思う。


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