話し相手20160810

自分を取り巻くこの世界に違和感を最初に感じたのはいつだったろう? 上手く言葉に出来ないながら、云い様のない生きづらさの様なものを感じたのは、僕の場合は思春期から青年期にかけての頃だったように思う。中学から高校あるいは大学前半の頃だろうか。もちろん楽しい季節でもあった。だが、どうにも息が詰まるような閉塞感と理不尽さ、そこに自分がいることの違和感の様なものを、感じ続けていたように思う。

そう 「生きづらさ」 と云うより他に、しっくりとくる言葉が見つからない。だが、と云って、病気を抱えていたり、家庭の事情に不具合があったり、迫害を受けていたり……etc.と云った具体的な事情による生きづらさではない。当時はそんなことを思いもしなかったが、今になって思えばその時期と云うのは、同性同年輩の親密な友人づくりだったり、「性的成熟」や「他者から見られる」自分の身体と出会ったりする時期である。そして「自分とは何か」の問いも訪れる。そうしたなかでの違和感であり生きづらさである。

何気ない日常のなかで出来事に振り回され、また、突き上げる衝動に突き動かされつつ、流されるように日々を過ごしてはいたものの、実は、そんな問題に翻弄されていたが故の、生きづらだったのかも知れない。と、今ならそう思う事も出来る。だが、こうした生きづらさは、別に青年期の専売特許ではない。大人になったからと云って、似た様な生きづらさに捉われることなど、僕たちの日常にはありふれている。

職場における「同調圧力」に悩み、ウンザリする事はないだろうか。逆に、自分は周りの人と明らかに違っており特殊だ変だと感じる事はないだろうか。あるいは、別に何かされる訳ではないけれど、所属する組織にどうしても馴染めない、だったり、この世界に自分の居場所などない、そう漠然と感じる事があるかも知れない。また、今の生活は 「本当の自分」 なのだろうか、と悩んだりするかも知れない。理解されない孤独に苛まれるかも知れない。

社会的動物でありながら他者を介してしか自己を認識出来ず、かつ、他者からの承認を要求せざるを得ない人と云う生き物は、こうした実存的な苦悩と、完全に無縁ではあり得ない。陳腐な云い回しで気恥ずかしい限りだが、煎じ詰めれば 「自分探し」 的な、あるいはアイデンティティ(自我同一性)の問題とも云えるのだろうが、この部分における生きづらさを抱え続けるのもまた苦しいものである。

だが、僕たちに出来る事と云えば、自己の存在の孤独と闘いながら、取り巻く世界を自分にとって生き易いものへと捉え直す(認知的世界を再構成する)事、また、当面の納得がいく自分を獲得する事ぐらいのものだろう。けれど、それが簡単に出来るのなら 「生きづらさ」 など感じたりはしない。とは云え、他者によって脅かされた心性の乱れを回復させるものまた他者である、とも云える。

「対話」には自分を客観的にみる契機が得られると云うメリットがある。たとえば、誰かと話しているうちに、自分が考えている事が良く判ったと云う事がないだろうか。そうではなく、話しているうちに、自分が奇妙な考えに陥っている事に不意に気づいた、と云う事はないだろうか。あるいは、思っていたほど特別でもないと自分を相対化出来た事も。また、誰にも理解されないと思っていた感性を分かった貰えた時、心強さの様なものを感じた事はないだろうか。また、周囲との関係の取り方に新たな視点を得た事はないだろうか。

もちろん 「対話」 が万能な訳ではない。と云って、この様な「生きづらさ」をひとり抱えて苦悩し続けると云うのも過酷である。万能ではないかも知れないが、少なくとも 「対話」 には、その重荷を分かち軽くする機能はあるだろうし、自分自身を見詰め直す契機ぐらいは秘めている。世界を変える事など出来ないのだろう。だが、どうなもならない世界を自分にとって生き易く捉え直すことは無意味ではない様に思う。


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