なんとなく誰かと話していたい……。そんな気分になる時はありませんか? また、どうしようもなく孤独を感じる時や、誰かと繋がっていたいと思う時。あるいは、人と接する機会の少ない生活のなかで寂しさを抱える事もあるでしょう。そんな時、<対話>が癒しになる事もあります。

誰にだってある淋しいとき

話し相手1 特に何があったと云う訳でもないけれど、不意に淋しさを感じたり、人恋しくなったりする事はないでしょうか?経験的に僕たちは、人にはそうした時がある事を知っています。いえ逆に、そんなことは事はありふれていると、実は誰しも気づいているものです。ですが、そんな時に限って、適当な話し相手が見つからなかったり、あるいは 「自分が弱いからだ」 と自分のせいにして、誰にでもある淋しいときを、ひとりで耐えてやり過ごしているのではないでしょうか。誰だって話を聴いて欲しい時くらいあるものです。そんな時、たとえ見知らぬ誰かであったとしても、少し話が出来たなら、心に安らぎが戻るときもあります。それを否定される根拠などありません。漠然とした寂寥感に苛まれるとき、気楽な雑談相手を求めるのは、決して特別な事ではありません。

世界は孤独に満ちている

そうした淋しさと重なり合いつつも、人と接触する機会の少ない生活のなかにあって孤独を感じる場合もあります。地元を離れ慣れない街での一人暮らし、希薄な人間関係の職場、定年後の単身&独身世帯、配偶者との死別や別居、苦手な対人関係、病気で出歩けない毎日、単身赴任……etc.話し相手_2 僕たちが孤立化する要因など数え上げればキリがありません。他者との接触を敢えて避けていなくとも、孤独に陥ってしまう事はあります。そんな時、淋しさに苛まれないでいる事は、誰にとっても難しいのではないでしょうか。「同行二人どうぎょうににん」と云う言葉があります。これは本来、四国巡礼の遍路などが弘法大使と一緒に巡礼する事を意味する言葉です。旅の道中、一人で歩いていても、常に弘法大師を隣に想像し、励まされ、あるいは語り合い、自分で歩く。弘法大使と二人連れだから心強い、と云った意味ですが、弘法大使はもうひとりの自分であっても良いし、あるいは、寄り添い歩む、「会う事のない信頼のおける見知らぬ誰か」 であっても良いのだと思います。そんな 「対話」 を通じて気持ちを分かち合い、日々を送る事で、心強さを得る事もあるはずです。事情によって周囲に話す相手がないのなら、そんな話し相手がいたって良いのです。

誰かと共にいるからこそ孤独なときもある

また逆に、ひとりではない時に感じる孤独と云うのもあります。むしろ大勢のなかにいる時や、知人に囲まれている時に感じる孤独感。「自分は誰とも違う」 「この感情や考えは誰にも理解されないだろう」 自分以外の人と接するなかで、そう云う意識に捉われる事はないでしょうか。話し相手3 そんな時に感じる孤独や寂しさです。もちろん、自分と同じ他者など存在しない以上、また、自分に云える事は万人に云える、などと云った事のない以上、それは避ける事の出来ない孤独です。あるいは、僕たちが母体から分離し、さらに様々なものから切り離される事によって、他者を認識し、世界を認識する、<個>である以上、避ける事の出来ない 「存在の孤独」 とでも云えば良いのかも知れません。ですが、こうした孤独感は僕たちの日常にありふれています。この不可避的な孤独を和らげるのには、きっと 「語ること」 が貢献します。それはたんに話し相手がいるから寂しくないし、孤独でない、と云うだけではありません。「語ること」 によって誰かに 「わかって貰う」、あるいは、「わかろうとして貰う」 事の持つ作用です。誰かに理解される事。それだけで孤独に苛まれる心が和らぐ事もあるものです。

「話し相手サービス」 そして 「傾聴カウンセリング」

僕たちは経験的に話すことで気持ちが楽になったり、心が整理されたり、淋しさが癒されたりする事のあるのを知っています。ですが、孤独な気持ちを慰めるために、こうしたサービスを利用すると云うのはどうなのだろう、と考えたりはしませんか。自分の心が弱い様な、あるいは格好が悪い様な、そんな印象を持ったりはしないでしょうか。 「話すこと」 が心の安定や安らぎに大きく貢献することを知りながら……。さらに、話したいと思っても、周囲の人には話せない心の内と云うのも人にはあります。けれど、「会う事のない信頼のおける見知らぬ誰か」 にならどうでしょうか。こうしたサービスには、そんなメリットもあります。<個>であるところの人は根源的に孤独な存在です。その淋しさを時に持て余すこともあるものです。先に同行二人どうぎょうににんについて触れましたが、そうした相手に語る事は、<存在の孤独>を生きる僕たちにとって、意味のある事なのではないでしょうか。それは、心の動きをあるがままに尊重され、その内面を共有されることによって、自ら洞察を得ていく道を共に歩む、傾聴カウンセリングでも同様です。誰だって話を聴いて欲しい時くらいあるものです。