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カテゴリ:対話の豆知識 > アサーション


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アサーション_20160322

円滑な対人関係を築くための自己表現を学ぼうと云う事で、皆さんと一緒に「改訂版 アサーション・トレーニング 」を読み始め「第1章 アサーションとは」では、自己表現の仕方をには3つのタイプがある事を知りました。

非主張的:自分よりも他者を優先し自分の事を後回しにするタイプ。
攻撃的:自分の事だけを考えて他者を踏みにじるタイプ。
アサーティブ:自分の事をまず考えるが他者にも配慮するタイプ。


自分が行いがちな自己表現のタイプはどれかを内省し、日頃のコミュニケーションの癖を知っておくのがアサーティブなコミュニケーション(自他尊重=嫌われない自己主張)への第一歩と云う訳です。あるいはまた、コミュニケーションにストレスを感じる時など、その時の自己表現のタイプを考え反省すれば、次回に活かすことも出来るのではないでしょうか。

また、第1章では「アサーティブになるのを妨げる6つの要因」も挙げられました。最初の2つは 「気持ちが把握できていない」「結果や周囲を気にし過ぎすぎる」 と云う要因。

前者は、幼少期からの感情の抑圧などにより、自分で自分の本当の気持ちが判らなくなっている、と云うものです。折につけ、自分自身を見詰め、自分の本当に云いたい事に気付いておくのは有益だと云えるでしょう。

後者は、主に 「非主張的」 なタイプの自己表現についてです。相手に伝わらなかったり、拒否される失敗を恐れ、自分の気持ちを伝えないまま、相手に従い、欲求不満に陥る様なケースです。相手をコントロールすることなど出来ないのだと割り切ったうえで、けれど「適切」な云い方で、自己主張を行うことは必要だと思われます。

さて、3つめに挙げられたのは「基本的人権を使っていない」です。

「第2章 人権としてのアサーション」

日常生活において「気をつかう」「躊躇する」「ムキになる」etc.によって、云いたい事を云えなかったり、云い過ぎたりと云った事態は幾らでも起こります。ですがこれらの問題には、言い方以前の問題が潜んでいそうです と平木(2009)は述べます。

この問題に関して平木は、自己表現する(アサーション)するか否かの基準が、自分のなかにないからだ、と指摘しています。非主張的な人は 「断る事はよくない」「迷惑はかけてはならない」「相手の気分を害する様な事は言ってはならない」と自分で決め込んでいます。また攻撃的な人は「やっていいに決まっている」と、これもまた自分本位の思い込みで、相手を押さえます (平木,2009)。 アサーティブな人は知ってか知らずか、自分勝手な判断はしていないと云う訳です。

その背景として平木(2009)は、差別撤廃運動に触れつつ、キング牧師の例を紹介し、人々は、攻撃的にならずに自己主張する方法を知り、自己主張する権利に目覚めていったと述べています。アサーションのよりどころは「自己表現の権利」と云う基本的人権を認めることにあるとし、アサーションにまつわる基本的人権を「アサーション権」と呼びます。代表的なもの5つ紹介しており、これらが先の判断基準になると云います。

アサーション権Ⅰ: 私たちは誰からも尊重され大切にして貰う権利がある。

「アサーション権Ⅰ」。これについては自明だと思われます。人間の尊厳は不可侵です。ですが、私たちは日々、自分で勝手に決めた価値観や共同体の慣習、自己の行動基準によって、これを容易く放棄していないでしょうか。次のような事例が挙げられています。

バスがなくなる時間には、妻が駅まで、車で夫を迎えに行く事になっているご夫婦。たまたま妻が風呂に入ろうとしていた時に夫から電話が掛かって来た。何の気なしに妻は 「あら、お風呂に入ろうとしていたんだけれど、じゃあ行くわ」と云って夫を迎えに行った。帰って来て食事の支度をしたところ「風呂に入ろうとしていたんだろう?入って来れば?」と夫が云ってくれた。妻は、それですっかり良い気分になった。と云うのです。

この事例では、妻はそれまで「自分の欲求を言ってはならない」と何処かで思っていたのでしょう。ところが不意にそれを話してみれば、相手も気を遣ってくれた、と云う訳です。適切に語れば相手も判ってくれる、と云う例です。

アサーション権Ⅱ: 私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分で行動を決め、それを表現し、その結果について責任をもつ権利がある。

「アサーション権Ⅱ」。たとえば、誰かの誘いを、きちんと事情を話して断った時。それでも 「少しくらいいじゃないか」と更に誘われたらどうしますか。誘いに乗っても、断っても、後悔や罪悪感、恨みがましい気持ちが起こりやすいケースです。「本当は行きたくなかったのに」「誘いに乗ったことについて、どう言い訳しよう」「断ったりして気分を害さなかったかな?」「怒ってないかな?」 などなど。ですが、自分の決断や行動は、最終的には自分が決めたことなのです。誘った相手のせいで行った訳でもなければ、事情に拘束されて断った訳でもありません。どちらを選ぶ権利もあったのです。ただその決断と行動とを自分のものとして受け入れれば良いわけです。

アサーション権Ⅲ: 私たちは誰でも間違い、それに責任を持つ権利がある。

「アサーション権Ⅲ」。意図的な規則違反や欺瞞を除いて、人間である以上は誰だって過ちを犯す権利があります。過ちを犯したならその責任を受け入れ、出来る限り最大限可能な範囲で、償う事が出来ます。また明文化された罰則規定のある事柄なら、それに従って償う事が出来ます。つまり「失敗は絶対にしてはならない」と云う価値観のもとでは、適切な自己表現は出来にくく「失敗する」権利もある、と知る必要があると云うことです。

アサーション権Ⅳ: 私たちには、支払いに見合ったものを得る権利がある。

「アサーション権Ⅳ」。「泣き寝入り」する必要など何処にもないと云うことです。但し、ここで重要なのは、相手にも失敗する権利があると云うことです。そして、もし支払に見合わないもので譲歩するなら、その決断、行動は自分のものだと受け入れる必要があると云うことでもあります。つまり、必要以上に攻撃的になるのも、誰かのせいや、慣習のせいにするのも、おかしいと云うことです。

アサーション権Ⅴ:私たちには、自己主張をしない権利もある。

「アサーション権Ⅴ」。権利があるからと云って、必ずそれを行使「しなければならない」などと云うことありません。行使しない権利だってもちろんあります。非主張的な人が自己主張できないことで悲嘆に暮れる必要などなりません。それは「自己主張をしない権利」を行使したわけです。ですが権利を行使した以上は、相手を恨む事も出来ません。

アサーション権についてはもっとあると云う事ですが、基本的人権と云う認識は、自己主張するか否かの判断の、ひとつの基準にはなると思います。この章の締め括りで、平木(2009)は留意点として、この権利は自分にあると同時に他者にもあること。アサーション権と役割に付随した権利&義務とを混同しないことを挙げています。

アサーション

【文献】
平木典子(2009) 「改訂版 アサーション・トレーニング」 日本・精神技術研究所

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傾聴_20160325

皆さんと一緒に、「改訂版 アサーション・トレーニング 」(平木典子 著)を、ここまで 「第1章 アサーションとは」 「第2章 人権としてのアサーション」 と読み進め、「自己表現の3つのタイプ」を確認し、5つの「自己表現する権利」について知りました。今回は、「第3章 考え方をアサーティブにする」 です。これは、先にみたアサーティブになるのを妨げる6つの要因のうちの4つめにあたります。

「第3章 考え方をアサーティブにする」

この章では、日頃の私たちのモノの見方や捉え方、考え方がどうなっているのか、そしてそれは、アサーションにどの様な影響を与えているのか、が検討されています。平木(2009)は アサーティブな言動には、ものの見方、考え方が影響 します。 人は自分の考え方やものの見方にもとづいて行動しますから、考え方がアサーティブでないとアサーティブな言動は出来ない と述べています。が、はたしてそうなのでしょうか? 人は感情の動物だと良く云われるではないですか。

「感情」は出来事ではなく「認知」や「思考」によって引き起こされる

一般に、人は失恋すれば悲しくなる、と考えられています。ですが、本当にそうでしょうか。平木(2009)は、ここで論理療法の A.エリス の「ABCD理論」を援用して説明します。良く使われる 「恋愛」 の例は少し飽きてきましたので、ここでは「試験」で考えてみます。

期末試験でも就職試験でも資格試験でもなんでも良いのですが、ある人が、とにかく、試験で悪い点をとったり落第したとします。その人は、悲嘆に暮れたり、悲哀に沈んだり、あるいは死んでしまおうと思うかも知れません。これだけをみると、あたかも「(A)試験に落ちた」ことが「(C)悲哀や抑うつ」を引き起こしたかの様に見えます。つまり「(A)出来事」 → 「(C)感情・行動」。けれど、もし、その人が、学校の成績なんてどうでも良いと考えていたり、人生において良くある事だと考えたりする人だったらどうでしょうか。悲しみに暮れるでしょうか。死にたくなるでしょうか。

つまり同じ「試験に落ちた」と云う 「出来事」 でも、人によって湧き起こる「感情」は変わってくると云う事です。その違いは何でしょうか。この例で云えば、「試験に落ちる事など許されない/どうしても受からなければならない」 vs 「まあ人生にはそう云う事もある/今回は少し努力が足りなかっただけ」との違いでしょうか。云うまでもなく、これは考え方や認知 (モノの見方) の部分です。だとすれば「感情」は「出来事」によって規定される訳ではなく「認知」や「思考」によって決まってくるのではないでしょうか。

「(A) 出来事」 → 「(B) 信念・思い込み」→「(C) 感情・行動」

A.エリスは「認知」や「思考」のある部分を「 Belief(信念)」と呼び、この部分が変化する事で、感情や行動も変わって来るとしました。もちろんBelief(信念)には、合理的な信念(ラショナル・ビリーフ:rational belief) と非合理的な信念(イラショナル・ビリーフ:irrational belief) とがあります。この「非合理的な信念」を「(D) 論駁・論破」 によって変更することが出来れば、その人にとって、より快適な感情や行動に繋げられる、と考えたのが、A.エリス の「ABCD理論」です。

では、アサーションを妨げる非合理的な思い込みには、どんなものがあるでしょうか。主なものとして、平木(2009)は5つ挙げています。

アサーションを妨げる非合理的信念(イラショナル・ビリーフ)

人は誰からも愛され、常に受け入れられるようであらねばならない
あたりまえに人は誰しも承認欲求を持っています。愛されたいと願うのは当然です。ですがそれが『ねばならない』になると問題です(平木,2009)。人に嫌われまい、あるいは、気に入られようとすれば非主張的にもなるだろうし、相手によって言動も行動も変えねばならないので、自分の不安定になるでしょう。この思い込みを合理的にするには「人から好かれるにこしたことはないが、必ず好かれるとは限らないし、まして、好かれ『ねばならない』と云うことはない、と変える事です(平木,2009)。自分の方が間違っていると思えることは、修正すれば良いし、そうでなければ、他者とは異質な存在であると云う原点に立ち返り、異なるものとして共存を図るのが良い、と云うことではないでしょうか。
人は完全を期すべきで失敗などしてはならない
この考え方をしている人は、いつもものごとはきちんとしていなければならず、人は常に、最大限に能力を発揮し、適切に行動し、良い成績を上げねば認められないと思っています。したがって、失敗した自分、失敗した相手を責めます(平木,2009)。確かにこれでは、自分も相手も窮屈にしてしまうでしょう。楽しめる事柄も義務と化し、また相手の落ち度が気になれば、過剰な配慮で相手の依存を強め自立を妨げることにもなりかねません。ここでは、アサーション権Ⅲを思い出すべきなのでしょう。
思い通りに事が運ばないのは致命的なことだ
この考え方をする人は、自分の思いと違ったことがおこるのを嫌います(平木,2009)。思い通りにならないことに遭遇すれば、それ自体をなかった事にしようとしたり、死んだ方が良いと考えたり、相手を変えようとします。そもそも人の人生において致命的などと云うことはそうそうありません。認知療法のE.バーンが云う様に「過去と他人は変えられない」わけで、これからの自分を変えたり、他人に依頼したりすることで、改善を図る方が賢明だと云えるのではないでしょうか。
人を傷つけるのはよくない。よって人を傷つける様な人は責められるべきである
この思い込みをもっている人は、人を傷つけまいと細心の注意を払っています。だから、傷つけるような言動に対しては、自分にも他者にも厳しくなります。この信念は、人を「責め」「非難」するときの、正当な理由として使われます配慮しながら、配慮のない人を責めたくなる心理(平木,2009)。合理的に書き換えるなら、たとえば「人を傷つけない方が良いが、時として傷つけてしまうことはあり得るので、その際は修復に努めよう」 と云ったところでしょうか。

危険で恐怖を起こさせる様なものの前では不安になり何も出来なくなって当然だ
多くの人は「不安」をコントロールしたり、別のものに変えたりすることはできないと思っていて、不安なときはパニックに陥るものだと思ってはいないでしょうか不安は、そもそも非現実的な心配から起こります ですが、その多くは最悪の事態を想像した先取り不安が主たるものです。「どうしよう」 の内容は、致命的でも、回復不能でもないことが多いのです(平木,2009) と平木は云い「どうにかできる」と思うことが逃れるコツだと述べています。

どうでしょうか。考えてみれば耳が痛ところです。けれど「判っているんだけどね」と云ってしまえば、そこで終わりです。まずはここに挙げられたものだけでも意識化しておいて、それぞれを、一度、自分で合理的なものに書き換えてみるのも良いかも知れません。また「判っているんだけどね」 と失敗したとしても、A.エリスが云う様に「何があっても、それで致命的になる事は滅多に」ありません。そして私たちは、「私たちは誰でも過ちをし、それに責任を持つ権利がある」 と云う、アサーション権Ⅲを持っています。

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【文献】
平木典子(2009) 「改訂版 アサーション・トレーニング

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