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カテゴリ:対話の豆知識 > 論理療法


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「対話の豆知識」では以前に「自他ともに尊重するコミュニケーション」「嫌われない自己主張の仕方」として「アサーション」をご紹介しました。その際は、皆さんと一緒に「改訂版 アサーション・トレーニング」(平木典子 著)を読んだのでした。 今回は「対話」と云う訳ではないですが、心に悩みを持ったり、憂鬱に苛まれたり、対人関係に苦しんだりして生き辛いとき、少しでも生き易くなる為の方法のひとつとして「論理療法」を紹介してみようと思います。前回に倣って「自己変革の心理学 ~論理療法入門~」(伊藤順康 著) を皆さんと一緒に読み進めてみたいと思います。もちろん、「対話」にも役立つはずです。

ちなみに論理療法とは、A.ベックの認知療法に先立って、A.エリスによって提唱されたカウンセリング理論で、特徴としては、カウンセラーの門を叩かなくても自分の努力で悩みを解決する手がかりを獲得することができるところにある(伊藤,1990)と云われています。

第1章 論理療法とは何か
第3章 事実の世界と受け取り方の世界
第4章 論理療法の基礎(前編)
第4章 論理療法の基礎(後編)
第5章 非論理的思考への反論
第7章 論理療法のまとめ
第8章 論理療法実践のためのアドバイス

※2章と6章とは省略

第1章 論理療法とは何か

論理療法入門

まず論理療法では、私たちが行動を決定していくにあたって、その羅針盤となるような信条や信念あるいは価値観や思い込み、考え方、そうした私たちの「思考」には「非合理的・非論理的思考(思い込み)」と「合理的・論理的思考(思い込み)」との2種類があると云う前提に立っています。例えば……、

◆あの人と結婚できなかったら生きている意味はない

と、真剣に考え悩んでいる人がいたとしましょう。さて、この考え方は合理的であり論理的であると云えるでしょうか?相手の人物が当人にとって極めて重要な人物であることは了解できます。ですが、その相手の人と結婚できなかったら、その人は生きている意味がないのでしょうか?将来的にもっと大切な人と出会い結婚するかも知れません。あるいは、別の人と結婚したとしても結婚生活を続けるなかで深い充実を得るかも知れません。さらに、結婚をしなかったとしても、結婚だけが人生ではないはずです。独身であっても豊かな人生を送っている方は多々おられます。こう考えると先の考え方は事実に基づいていない「非合理的・非論理的思考」だと云わざるを得ません。

人は往々にして非合理的な信条を自ら立てて固くそれにとらわれ自分に、あるいは自分の人生にダメだというレッテルを貼り、落ち込んでゆううつにな(伊藤,1990)ったりします。けれど、結局それは、自分で自分を否定的に決めつけ自滅の方向へと向かわせることになっているわけです。

論理療法とはこのような非合理的・非論理的な思考を見つけて取り出し、それに有効な反論を加えて、しだいに考え方を変えさせ、人を自滅の方向から救い出し、さらには適切な感情と思考を取り戻すことを通じて、人がよりよき自己実現、幸福な生活に向かうのを援助しようとする(伊藤,1990)、カウンセリング理論だと云えます。

さらに、論理療法の考え方に基づいて、自分で自分の思考を吟味し変更して行くことは多少の訓練で可能である、とも云われています。

自己説得のための心理学

ところで、論理療法では「非合理的・非論理的思考」は(「合理的・論理的思考」もですが)人の心のなかでの文章記述として表出することに注目しています。考えてみれば 「あの人と結婚できなかったら生きている意味はない」 と云うのも文章記述です。これは当然と云えば当然で、人は言葉によってしかものを考えることが出来ません。よって「思考」はいずれにしても文章記述とならざるを得ないのです。

云い換えれば、論理療法は、心の中に表れる文章記述の非合理的・非論理的思い込みに焦点をあてて、その文章記述を適切で論理的な文章記述に変えることによって考え方や感情をを変え、思考を再構成することを通じて行動の再構成を行っていこうとするものである(伊藤,1990)と、云えます。

自分の思考、つまり自分の心の中の誤った文章記述を変えることさえできれば、自分の感情や行動を変えていくことができ、やがては自己改造につながる(伊藤,1990)と云う様に考える訳です。

オーバー・ゼネラリゼイション

ここで、「自己変革の心理学 」では、ある自殺念慮を抱いた女子大生がとりあげられています。彼女の論拠はこうです。

◆これまで生きてきて良いことは少しもなかった。だからこれからずっと生きていてもよいことがあるはずがない。

これはどう考えても「非合理的・非論理的思考」です。「これまで生きてきて良いことは少しもなかった」。この部分については彼女がそう感じている以上は彼女の「認知的世界」として、その通りなのでょう。ですが、「だからこれからずっと生きていてもよいことがあるはずがない」この推論はどうでしょう?過去の事実、それも主観的事実から未来を「断定」することなど誰にも出来ません。

さらに、この彼女の思考は、論理的に不当なだけでなく、彼女の可能性を奪う思考だと云う点でも、二重に不幸だと云えます。この心のなかの文章記述、非合理的・非論理的思考を、適切で論理的な文章記述に変えることによって、感情や行動を変化させていこうと試みるのが論理療法考え方です。但し、特に援助と云う視点から見た場合、どうして彼女が「これまで生きてきて良いことは少しもなかった」と考えざるを得なかったのか、この事については、周到な配慮が必要なのは云うまでもありません。

いずれにしても「過去の主観的事実から未来を断定する」「大人であるBはCだ。大人であるDはCだ。故に、大人はCである」この様な一部の事実から客観的な根拠なく全体を断定する様な思考を論理療法では、不当な「過度な一般化(over-generalization)」と云います。

どうせ思考

こうした不当な「過度な一般化」は私たちの日常的な思考のなかに溢れかえっています。この思考は「可能性を奪う思考である」と先に書きましたが、実は彼女の思考には 「これからずっと生きていても【どうせ】よいことがあるはずがない」と云った様に、省略されてはいますが、暗黙裡に 「どうせ」 と云う言葉が含まれている事からも、それは明らかです。

「どうせ思考」 は未来への可能性を奪います、未来へ向けて事態を打開しようとする意欲を奪います。自らの可能性を自ら奪うのです。ですが 「どうせ」 で始まる物云いなど、私たちの日常には幾らでもあります。

不当な、過度の一般化を含む思考には非常によくあらわれるものであり、不当な、過度の一般化を発見する直接的台詞ともいうべきものが、この 「どうせ」 ということばなのである(伊藤,1990)

さらにこの 「どうせ思考」 が他者に向けられた場合、それは、他者の可能性を奪うものとなる、と云う点にも注意が促されています。「どうせ教えたって分からない」「どうせ云っても無駄だ」「どうせこの子には無理だ」etc.この様に断定されれば、相手の可能性は閉じられてしまいす。

ところで、

◆あの人と結婚できなかったら生きている意味はない
◆これまで生きてきて良いことは少しもなかった。だからこれからずっと生きていてもよいことがあるはずがない。

これらの「非合理的・非論理的思考」は次のように書き換えることが出来るでしょう

◆あの人と結婚できなければショックに違いないし、悲しいが、と云って生きる意味はそれだけではないし、将来もっと素敵なことが起こる可能性は否定できない。
◆これまで生きてきて良いことは少しもなかったが、これから先もそうであるとは限らない。行き方によっては、これまでない良いことが起こるかも知れない

日常的思考(日常的文章記述)には多くの不当な「過度な一般化」が含まれており、それが心に問題や悩みを引き起こさなければ良いですが、そうではなく、その人の日常を生き辛くしたり、悩みとなったり、その人の可能性を閉ざしてしまう様な場合には、その思考(文章記述)の書き換えが役に立つ、と云うのが論理療法の考え方です。


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【文献】
伊藤順康(1990)「自己変革の心理学」講談社現代新書


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自分の努力で悩みを解決する手掛かりを獲得することの出来るカウンセリング理論として、論理療法を取り上げ「自己変革の心理学」(伊藤順康 著)を皆さんと一緒に読み始めました。今回は「第3章 事実の世界と受け取り方の世界」です。

第1章で、論理療法では、私たちの行動を左右するような「信条」「信念」「価値観」「思い込み」「考え方」と云った「思考」には、「非合理的・非論理的思考」と「合理的・論理的思考」との2種類があると考える、と云うことを知りました。そして、そのうちの「非合理的・非論理的思考」に捉われるとき、人は、自分で自分を否定的に決めつけ、落ち込んだり、憂鬱になったり、不安になったり、ネガティブな方向へと向うのだ、と。

よって、この「非合理的・非論理的な思考」を見つけて取り出し、自ら有効な反論を行い、それ書き換え、適切な「感情」と「思考」とを取り戻すことで「行動」が変化し、人はより良き自己実現に向かう。論理療法はその様に考えます。そして「非合理的・非論理的な思考」に多く見られる思考には、一部の事実から合理的な根拠もなしに全体を断定する不当な「過度な一般化」と云うものがあり、それを見つけるには「どうせ~~だ」と云った文章記述で表現される思考が目印になると知ったのでした。

次いで第3章では「論理療法の輪郭」が示されます。

※ちなみに「第2章 論理療法と私」はここでは割愛します。

第3章 事実の世界と受け取り方の世界

人は意味の世界に生きる

そもそも論理療法とは現象学の立場に立っています。現象学の考え方の基礎は、『人間は、目に見える世界に住んでいるのではなく、目で見える世界をどう受っとっているか、その受け取り方の世界に住んでいる』というものである(伊藤,1990)。たとえば「小学校」を考えてみます。勉強やスポーツが得意で友達も多い、と云った子供にとってみれば「小学校」は「楽しい場所」かも知れませんが、いじめの被害に遭っていたり極度に勉強が苦手であったりする子供にとっては「つらい場所」となるかも知れません。

さらに、伊藤(1990)の例をそのまま引けば、たとえばクラシック・コンサートの場面。演奏中に誰かの咳払いが聞こえたらどうでしょうか。多くの場合は不快感を感じるのではないでしょうか。但しここで、論理療法では、(A)「咳払い(物理的音声刺激)」が(C)「不快感(感情)」を生じさせたとは考えません。(B)「演奏中に咳払いをしてはならない」と云う受け取り方が、(C)「不快感(感情)」を生じさせた、と考えるのです。つまり、

  (A):咳払い(物理的世界)
⇒ (B):演奏中に咳払いをしてはならない(現象学的世界)
⇒ (C):不快感(感情的世界)

われわれは物理的世界というより、受け取り方の世界、意味づけの世界で暮らしているわけである(伊藤,1990)

ABC理論

「(A)物理的世界」を受け止め意味づけた「(B)現象学的世界」から、私たちの「(C)感情的世界」が生じている、ここまでを論理療法では「ABC理論」と云います。

ところで「(A)物理的世界」を受け止め意味づける様式は人それぞれです。そこに優劣はありませんし、価値の高低もありません。けれど、それが論理的であるか非論理的であるか、合理的であるか非合理的であるかの違いはあります。その差は「事実」に基づいているか「論理性」をもっているか、によって判断されます。第1章で言及されたように、人の思考には「非合理的・非論理的思考(イラショナルビリーフ)」と「合理的・論理的思考(ラショナルビリーフ)」の2種類があると云うわけです。

1.「私は異性にフラれた」 ⇒ 「ゆえにダメ人間である」
2.「私は前回の試験で酷い点を取った」 ⇒ 「だから次回はもっと勉強しよう」

この2つの思考を比べてみます。もちろん出来事どうを受け止めようと各人の自由ですし優劣はないでしょう。ですが、事実に基づいているか、論理的・合理的であるかと云う点からみれば、両者の違いは明らかです。

「私は異性にフラれた」ことはその人の全人格を否定するものではありません。相性もあるでしょうし、たんに交際の仕方を間違った結果かもしれません。「私は前回の試験で酷い点を取った」と云うことは前回の試験で解答を間違ったから点が低かった訳です。もし試験での高得点を望むのならば、間違わない様に勉強しようと云うのは合理的です。

1.は「イラショナルビリーフ」、2.は「ラショナルビリーフ」だと云うことになります。

ABC理論と古典の知恵

こうした論理療法の考え方は潜在的には大昔からあったのだと伊藤(1990)は云います。

外界の事物や出来事が、直接に人の感情そのものに影響を及ぼすものでないことは、実は古今の哲人がよく見通していたところなのである(伊藤,1990)。彼はそうした例を幾つも引いていますが、ここではマルクス・アウレリウスのものをひとつだけ紹介しておきます。

君が何か外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ


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【文献】
伊藤順康(1990)「自己変革の心理学」講談社現代新書


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