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カテゴリ:対話の豆知識 > 論理療法


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いま抱えている「悩み」や「生きづらさ」を自らの手で解消して行こうとするのが論理療法です。いわば自己カウンセリングの手法とも云えるこの論理療法を学んでみようと云うことで「自己変革の心理学 ~論理療法入門~」(伊藤順康 著)を読み始めたのでした。前回の第3章では、人は、物理的な「事実の世界」を生きている訳ではなく、その事実をどう受け止めたかと云う現象学的な「意味づけの世界(受け取り方の世界)」を生きているのだ、と云うことを学び、ABC理論について知りました。

こうして論理療法の輪郭が示され、第4章では、いよいよ論理療法の基礎が語られます。

第4章 論理療法の基礎(前編)

論理療法の形成

論理療法の創始者A.エリスの出自は「精神分析」であり、もともとは精神分析家でした。ここで「精神分析」について過不足なく述べるとは出来ないので、関連するところを簡単に云えば、精神分析では、クライアント(患者)のつらい感情や、あるいは症状、不適切な行動は、意識化するには不都合がある衝動や欲求、感情が、無意識の過程へと抑圧されることで生じると考えます。つまり、抑圧された心的エネルギーが、不快な感情や症状・行動となって形を変えて表現されているのであり、その無意識の過程が洞察により意識化されることで問題は消失すると考えるのです。

しかし、精神分析を実践するなかで、A.エリスはそのデメリットも痛感することにもなります。その最たるものが「洞察」を得られても治らないケースが多々あると云うことでした。たとえば『父がこわいから、それを感情転移して上司がこわくなったということはよくわかったのです。よくわかったのですが、やっぱり上司はこわいのです』つまり、現在上司がこわい原因を幼少期の体験に求め、それを探り、父親をこわがっているのだという『洞察』が成立しても、依然として上司がこわいのに変わりはないというのである。これではカウンセリングは先へ進まない(伊藤,1990)。これをもって「洞察」が成立した、と云えるのかどうかは甚だ疑問ではありますが、ともかくA.エリスは、「洞察」だけでは不充分で、あえて「行動」してみるところへクライアントを導く必要があると考えたと云うのです。

感情は思考過程から生まれる

さて「行動」にフォーカスした場合、従来の心理療法は「感情」が「行動」の源泉だと考えてきました。つまり「行動」を左右するのはその人の「感情」だと云う訳です。しかし、A.エリスは「行動」にフォーカスするとき「言葉」を重視しました。たしかに「行動」は「感情」によって左右されますが、「感情」は心のなかの「文章記述」だと考えた訳です。「嫌だなぁ」と云う「感情」は「この状態が好きではない」と云う心のなかの文章記述によって生じるとのだと。この文章記述とはすなわち「思考」です。つまり「感情」には「思考」が先行すると考えた訳で、「思考(認知)」が「感情」を規定し、その「感情」が「行動」を規定すると考えたのです。そしてこの「思考(認知)」とは、第3章でみた現象学的な「意味づけの世界(受け取り方の世界)」に他なりません。よってここに「ABC理論」が誕生した、と云う訳です。

たとえば「人前で話す不安」を感じている人の場合、『こんなことをいったらみんなに笑われるだろう』と思えば不安を感じて引っ込んでしまうが、その代わりに、『笑われたって別にかまいはしない。そのために世の終わりがくるわけじゃなし』と心の中で文章記述することができれば、不安は消滅し、発言する勇気につながり、行動も変わろうというものである(伊藤,1990)

   (A):人前で話す場面(物理的世界)
⇒ (B1):こんなことをいったらみんなに笑われるだろう(認知的世界/思考)
⇒ (B2):笑われたって世の終わりがくるわけじゃなし(認知的世界/思考)
⇒ (C1):不安(感情)
⇒ (C2):勇気(感情)

論理療法の出発点

以上のことは感情イコール言語であることを示しているわけであるから、感情を変えるためには言語記述を変えればよいということになると伊藤(1990)は述べます。つまり「不健全な感情=非合理的な感情」は「不健全な文章記述=非合理的な文章記述=思考(認知)」が原因となっており、これを書き換えることにより「感情」が変わり「行動」が変わると云う訳です。ここで「非論理的な文章記述=思考(認知)」と云うのは、前回にも示したように、「事実」に基づいておらず「論理性」をもっていない、すなわち客観的に証明できない「文章記述=思考(認知)」と云うことになります。

伊藤(1990)は論理療法では諸悪の根源は非論理的な文章記述にあると考えているここから論理療法は出発する(伊藤,1990)と宣言し、そして論理療法の手法を【第一段階】自分の感情の源である「非合理的・非論理的思考(非論理的な文章記述)」に気づいてもらう。【第二段階】「非合理的・非論理的思考」を意識化したなら、それを断固粉砕して「合理的・論理的思考(論理的な文章記述)」に書き換える、この二段階であると説明しています。第一段階は「気づき」=「洞察」=「無意識の意識化」と云うことですから、A.エリスが当初立脚した精神分析と変わりません。論理療法では、さらにそれを書き換える第二段階が加わると云うわけです。

エリスの表現をそのまま借りれば、『神経症者は非論理的文章記述で洗脳されているので、それを逆洗脳するのが論理療法』ということになる。はじめ、カウンセラーによって非論理的な内的文章を指摘され、説得されるという過程があっても、やがては各自が自分で自分の非論理的文章記述に気づき、それを修正していくことができるようになっていく、つまり自己説得できるようになることこそ論理療法の終局的な目標である(伊藤,1990)

と云う訳で、次回『解題「自己変革の心理学」(第4章)後編』では、それでは何故、私たちの思考が歪むのか?と云った部分に触れたいと思います。


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【文献】
伊藤順康(1990)「自己変革の心理学」講談社現代新書


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諸悪の根源は非論理的な文章記述にある(伊藤,1990)。論理療法はその様に考え「ABC理論」を提唱しました。すなわち「感情」には「思考(認知)」が先行しており、「感情」と「行動」を変えるには「思考(認知)=心のなかの文章記述」を書き換えれば良い。あるいは「感情」は「出来事(刺激)」から直接に湧き上がるものではなく「認知」を介して生じる、とするものです。そうだとして、あたりまえのことですが、「思考=認知」には「論理的・合理的」で適切なものもあります。問題となるのは、それが「非論理的・非合理的」で不適切な場合です。何故なら、そうした認知に捉われるとき、人は、自分で自分を否定的に決めつけて、落ち込んだり、憂鬱になったり、不安になったり、ネガティブな方向へと向かうからです。では、なぜ、人はそのような「非合理的・非論理的思考」を抱くようになるのでしょうか。またその背後にある無意識的な価値観は何故「非論理的・非合理的」に歪むのでしょうか。第4章の後半では、これらのことについて語られています。

第4章 論理療法の基礎(後編)

なぜ思考が歪むのか

伊藤(1990)は、私たちの「思考(認知)」が歪む大きな要因として、4つあげています。

「われわれは生まれてから今日まで、他者に暗示をかけられて成長してきた」

私たちは他者を通してしか自分自身を認識できません。特に乳幼児期や幼少期においては、私たちは養育者の愛情と承認と得る必要から他者の反応が決定的な意味を持っていますし、その過程を通して無意識に、他から与えられた様々な価値観を内在化させていきます。ちなみに、この様にして自己概念が形成されていく、と考えるのは、C.R.ロジャースの来談者中心療法と酷似しています。それは「論理療法」と「来談者中心療法」とが、ともに現象学の影響を受けていることによると思われます。また「精神分析」における超自我の形成過程をも彷彿とさせすが、A.エリスがそもそも精神分析家であったこと、そしてまたC.R.ロジャースも「精神分析」出身であることを考えれば不思議ではないでしょう。それはともかく私たちは、他者からの暗示を自分の価値観と思い込んで認知の仕方を形成しています。「高学歴であるべきだ」「いつまでも独身は良くない」「反抗的なのは良くない」etc.それらは必ずしも「論理的・合理的思考」であるとは限らない、と云う訳です。

「shoud(ねばならない)とwish(こうあってほしい)の混同」

人にイヤミをいわれて悩む人は、『イヤミをいうべきでない』という前提をもっている。『べき』であるのにその通りになっていないという不満である。しかし実際は『イヤミをいわないでほしい』というのが本当のところであって、そこではshoudとwishが混同されていると伊藤(1990)は云います。こうあってほしいという願望の世界が、そのまま現実の世界であるはずだとする幼児性に基づいてる(伊藤,1990)として、「shoudとwishとの混同による認知の歪み」の原因を、私たちの持つ「幼児性」に求めています。遺憾ながら、われわれがwishと考えるべきところをshoudと考えてしまうという思考の歪みは、きわめてよくみられるところである(伊藤,1990)と指摘し「非合理的・非論理的思考(イラショナルビリーフ)」の粉砕の必要を説いています。

「過去へのとらわれ、つまり『持ち越し苦労』」

「~~すべきじゃなかった」「~~するんじゃなかった」このように何回も心のなかで繰り返してしまうことが人にはあります。繰り返したところで事実の世界には何の変化も起こらないのに、である。論理療法ではそういうことをしてもムダであると考える。それよりも、将来同じ過ちを犯さないためにはどうすればよいのかを考える。後悔よりも前向きの姿勢をとろうとするのである(伊藤,1990)

「自己主張へのおそれ」

たしかに人前で話すのを躊躇するときと云うのはあります。また自分のしたいと思うことを遠慮して出来ないと云うことも。他者の反応を気にしていうべきことがいえず、したことができない。たとえば、『こんなことをいえばみんなが笑うだろう。だから黙っていよう』といった類である。みんなが笑うだろうというのは、実は想像・推論にすぎない。推論をあたかも事実のように扱っているのである(伊藤,1990)

第三と第四については何故そのような要因が存在するのかと云った根拠については述べられていませんが、多くのケースを分析するなかで経験的に見出だされた心理傾向なのかも知れません。いずれにしても、次のように述べて、伊藤は「思考の歪みの要因」について締めくくっています。思考の歪みの四つの要因について述べた。これらが重なって、われわれのビリーフの体系の、つまりBの部分をイラショナル・ビリーフでいっぱいにしてしまうのである。論理療法は、これらのイラショナル・ビリーフを粉砕して、ラショナルなビリーフを形成していこうとするものである(伊藤,1990)

10のイラショナル・ビリーフ

さてここで、伊藤(1990)は人の心に起こりがちな「10のイラショナル・ビリーフ」を列挙しています。あくまでこれらは「イラショナル・ビリーフ」です。伊藤のコメントをも踏まえつつみて行くことにします。あらかじめ抱きやすい「イラショナル・ビリーフ」を認識しておくことは「論理的・合理的思考」の形成にも役立つのではないでしょうか。

①何をする場合でも他人の同意は必要なものだ

これはなかなか魅惑的な「イラショナル・ビリーフ」です。人は誰しも自信に満ち溢れている訳ではありません。他人の同意はその自信のなさを補償してくれるからです。もちろん合理的な思考ではありません。人が何と云おうが自分の方が正しいと云うこともありますし、まして趣味嗜好の場合ならその限りではありません。伊藤(1990)も他人の思惑にとらわれるよりも、自分が本当にやりたいことをするように心がけることであると述べていますが、参考にしたり意見を聞いて判断するのは良いとしても、それに縛られるのは合理的ではありません。また不同意や批判が適切だと思われたときでも、それは自分の人間性についての評価ではないことを認識しておくことも大切です。

②いつでも完璧な行動をするようにしなくてはならない

当然ながら神ならぬ身の私たちが過ちを犯すのは当然です。間違わないに越したことはありませんがそれでも間違うときはありますし、まして完璧に出来ないことなどありふれています。むしろ次により良く行動できる方法を模索するのが合理的な思考です。ですが、人はつい「出来なければ」と強迫的になるときがありますし、完璧主義的な性格傾向の人もいます。そうした場合、失敗したり計画が頓挫したときなど「必要以上に」ネガティブな感情に陥りやすいので注意が必要です。

③誰か他人に対して悪い人だとかレッテル貼りをしてしまうこと

ありがちな思考であり行為ですが、非合理的であることは言及するまでもありません。私たちは他者の全てを知っている訳ではありませんし、そもそも他者にはどうしても知り得ない領域があるからこそ他者なのです。自分も他人も誤りを免れない存在であることを十分に認識しようまた「罪を憎んで人を憎まず」と云う言葉もある様に行為の是非と人間の価値を決して混同しないことわれわれは他人の行為についてはその是非を判定できるけれども、行為をなす人の価値などは決して正当に評価しえないものなのである(伊藤,1990)

④事態が思い通りにならないと頭にくるのは当然である

これは一見すると合理的な思考に見えるかも知れません。物事が思い通りに進まず腹を立てることなど幾度も経験しているからです。けれど、ここまでみてきた論理療法の考え方によれば、これが合理的思考ではないことに気づくでしょう。この文章記述には先行して「事態は思い通りになって当然だ」と云う「イラショナル・ビリーフ」があるはずだからです。この場合、まず事態の推移を受け入れ、そして決然として事態の改善そのものに全精力を注ぐことこそが、ラショナルな態度というべきであろう(伊藤,1990)

⑤不幸は外因的なものである

たとえば人事異動の場面。当然なれると思っていた課長の選に漏れたケース。「課長になれなかった」の次に来るのは「ああ何て俺は不幸なんだ」と云う文章だけではありません。「もしかしたら努力不足だったのかも知れない。次はもっと精進しよう」と云う文章だってあり得る訳です。つまり、落胆だとか悲嘆だとかと云う不幸は「課長になれなかった」と云う出来事を、どう受け止めたか、すなわち「認知/思考」が生じさせたのです。と云うことは「不幸」は内因的(心因的?)なものであり、「イラショナル・ビリーフ」です。

⑥何か危険なことが起こりそうなときは心配するのが当然である

これは⑤が「イラショナル・ビリーフ」であることを思えば当然です。「危険なことが起こりそうな出来事」を前にした「心配」は自分の「認知/思考」が生じさせているのです。いろいろなことが必要以上に気にかかるのは、たいてい自分の勝手な憶測が原因となっており、心の中で恐怖を増幅するような内的文章を自分に語るところからきているのである。したがって、そういう自分の独断的な仮説をよく吟味して反駁していくことである(伊藤,1990)。

⑦人生の困難はこれに立ち向かうより避ける方が楽である

考えようによっては「ラショナル」だとも云えなくはない「認知/思考」です。しかしながら人生において何らかの目標があったり、自らが望む在るべき姿があったり、他人から承認や愛情を得ようと望むのならば、やはり「イラショナル・ビリーフ」だと云わざるを得ません。何故ならば、それらに向けて歩みを進めるにあたり、立ちはだかる困難や責任を回避していたのでは、自らが望んだものを手に入れることは難しいからです。とは云え「おっくう」と云うのは誰の身にも降りかかる意外に難敵であり注意が必要と思われます。

⑧人にはそれぞれの過去があるのだからやむを得ない

過去における何らかの出来事や経験に影響を受けたからと云って、それが現在・未来におよぶまで決定的に無制限に影響を及ぼすと云うのは「非論理的」です。もちろん何らかの影響はあるでしょうが、それによって未来が決定づけられると云うことはあり得ません。よりよい未来を創造していくためには、現在の状況を改善する努力こそ必要だというるだろう(伊藤,1990)。過去と他人とは変えられないにしても、未来と自分とは変えられるのです。

⑨他人の行為や事態はもっと違っているべきである

自分が独自の考えをもった独立した人間であるのと同様、他人もまた独自の考えをもった独立した人間である。そうである以上、他人が自分の気に入るように行動することのほうがまれである他人の行為や世の中の推移は、自分のwishとは独立にあるものなのである。まずその事実を厳密に受けとめかつ受け入れることである(伊藤,1990)。

⑩何もしないで楽して暮らせるならそれに越したことはない

確かにそうとも云えるかもしれない「認知/思考」で難しいところではあります。私たちが置かれた世界は不完全なものですし、私たち自身もいずれは死ぬ有限な存在でしかありません。そう考えれば世界はそもそも無意味だとも云えます。けれど、そう考えれば、私たちに残るのは「不安」と「虚無感」ばかりです。「生きる意味」を持たずに、それでも生きること。あるいは、ただ意味もなく漫然と楽する事だけを目指して生きること。それは逆に苦しいことではないでしょうか。それを解消するには、自分にとって意味があると思えること、自分の信じることに存在意味を見い出して、自分が置かれた位置や立場を億人していく作業、つまり自分にとっての「生きる意味」を見い出しそれを追及することが必要なのではないでしょうか。実存分析(ロゴセラピー)のV.E.フランクルは次のようなことを云っています。“自分の未来へ向けて生の意味を求め続けていくことに意味がある。人は人生の目標たる「生きる意味」を自分の全人生をかけて自分の内面に作り出していく必要がある”と。また伊藤(1990)は何もしないことはフランクルにいわせれば、生きる意味をつくっていくことを放棄することにほかならない。生きがいとは、何もしないで「楽」をしていることの反対の極にあることを、心に留めておきたい(伊藤,1990)と述べています。

さて、この様にして伊藤(1990)は人の心に起こりがちな「10のイラショナル・ビリーフ」を検討したのちに、「非論理的思考はなぜ生まれたか」「非論理的思考を身につけていく原因」について言及します。ですが、これは今回前半で触れた【私たちの「思考(認知)」が歪む大きな4つの要因】の第一「われわれは生まれてから今日まで、他者に暗示をかけられて成長してきた」を詳細に述べているにすぎません。列挙しておきますと、

・幼年期は筋道を立てて考える能力が未発達であったこと
・差し迫った現実の危険と想像上の危険を正確に識別する能力がないこと
・子供ゆえに他人の思考や企画に依存せざるを得なかったこと
・両親によって植え付けられた迷信や偏見の存在
・文化的環境、とくにマス・メディアの影響

ただし、むしろここでは、この章の最後で簡単に触れられている、論理療法とは「思考」と「行動」との両方を重視するのだ、と云うことの方が大切ではないでしょうか。つまり『【第一段階】自分の感情の源である「非合理的・非論理的思考(非論理的な文章記述)」への気づき』『【第二段階】「非合理的・非論理的思考」を意識化したなら、それを断固粉砕して「合理的・論理的思考(論理的な文章記述)」に書き換える(行動する)』と云うことです。幼児期からずっと、骨身にしみこんだ自滅的傾向を打ちやぶっていくには、思考と行動とがいずれも重要であることが理解されよう(伊藤,1990)。

と、云う訳で、次回「非論理的思考への反論」では、いよいよ「書き換え」の部分について語られます。

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【文献】
伊藤順康(1990)「自己変革の心理学」講談社現代新書


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