話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

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話し相手20160413

ぼんやりと書棚を眺めていて、不意に懐かしい小説が眼に留まったので読み返してみた。その主題については、ここでは置いておくとして、そのなかのあるフレーズが印象深く心に残ったので少し長くなるが引用してみたい。

私は、喋ったことを理解して欲しいとは思っていないの。だから本当のことは言わないかもしれないし、私自身が信じていなくても、相手が喜びそうなことだけ話すかもしれないし、……気が向かなかったら何ひとつ言葉にしないかもしれないし、ね、結局、誰でも自分にしか通じない言葉で喋るんだとは思わない? (増田,1987)

僕たちは誰しも自分の思うところを、そっくりそのまま言葉にのせて、同一の内容を相手に届ける事は出来ない。何故なら、他者との対話において僕たちの語る言葉は、必ず相手のなかで別の事を意味してしまうからだ。もし仮に、思いをそっくりそのまま伝えられる世界があるとすれば、それは自己対話の世界でしかないだろう。

自分と同じ他者がいる世界(多少譲って、自分に当てはまる事が万人に当てはまる世界、としても良いかも知れない)。そんな世界など在りはしない。実際に僕たちは誰かと話しながら、いつも心のどこかで通じ合わない部分を持っているのが普通だ。自分の喋った事が別の事を意味してしまい、それを軌道修正するために重ねた言葉がまた別の事を意味してしまう。これが現実だろう。

人は誰しも自分にしか通じない言葉で話す

だが、それでも僕たちは語り続ける他ない。それはそうなのだが、ここで気を付けたいと思った事がある。もし、この様な言葉の不自由さ、もしくは、僕たちが<個>である事に語る望みを失い、「話しても無駄だ」 「云うのは虚しい」 「言葉には出来ない」 「誰にも話せない」 と感じた時、人は口を閉ざすだろう。語られようとしたその思いはその人のなかに抱え込まれる。しかし、そこでもし、確かに言葉では言い尽くせないにしても、そこから零れ落ちる何かを汲んでくれる相手だと感じられたらどうだろう。その思いは解き放たれる可能性を持つのではないだろうか?

そう云うものに私はなりたい……と、云う事で、日々このような事を肝に銘じつつ取り組んでいる。


【文献】 増田みず子(1987)「自殺志願」 福武文庫


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心の悩み,共感,傾聴

日常で感じた僕の違和感、と云った様な記事が続く事になってしまって恐縮なのだが、もうそれだったら、まとめて書いてしまえと云う事で、今回もそんな違和感を感じている言葉とそれに纏わる自戒について書きたいと思う。

「傾聴」 だの 「カウンセリング」 だのと云った世界に足を踏み入れると 「寄り添う」 に負けず劣らず溢れかえっている言葉がある。云わずもがなの 「共感」 だ。何かにつけて言及される。「共感が足りていない」 「共感的に理解して行けば」 ……まあそれはそうなのだろうが、僕などはこの言葉を聞くと、ある種の気恥ずかしさに襲われ、また、少し鼻白む気分にもなる。いかにも優しく暖かそうな言葉。だが 「共感」 とはそう易々と語れる類のものなのだろうか?

ロジャースによれば、それは次のように定義される。“相手の私的な内面世界を、それが(あたかも)自分自身の世界であるかの様に感じとり、しかも『あたかも……の如く』と云う性質を決して失わない態度”(Rogers,1957)。まあそれが 「同感」 や 「同情」 と違う事は判る。それでも今ひとつピンと来ないのではないだろうか?

少し長い引用になるが、例えば菅野(1998)はこの事に関してこう述べている。“カウンセリングの原点とは、カウンセラーがクライエントのパースペクティブ(視野、展望、思惑)を取り入れることにある” “平たくいえば、相手の立場に立つ、相手の立場に立ってものごとを考えること、そしてそのうえでコミュニケーション表現をしていくことである” (菅野,1998)。そしてこれはG・H ミードの言葉で 「ロールテイキング」 だと説明している。菅野は、ロールテイクは 「共感」 とは異なり完全にニュートラルな概念だと云うが、そうだとしても 「共感」 にはロールテイクが前提になるだろう。なるほど 「相手の立場に立ち相手の視線で世界を見詰め物事を考えそれを表現する」 。ロジャースが云いたかったのもこういう事なのかも知れない。

云うは易し行うは難しである。そう簡単に出来るものとは思えない。そもそも全ての人間には他人がうかがい知る事の出来ない事情がある。容易く判った気になどなってはならないのである。さらに菅野はこうも云っている。“それでもなお、他者は自分の理解の外にあると云う他者理解を含め、私はそれを他者感覚と仮称している” つまり人には、他人には踏み込む事の出来ない領域があると云う事だ。例えば、自転車の乗り方の「コツ」を人に教える事は出来るが、「乗り方」そのものを教える事は出来ない。それは当事者にしか判らないのである。

では 「他者」 とはなにか? 柄谷(1992)は云う “他者とは自分と言語ゲームを共有しない者の事でなければならない” ここで「言語ゲーム」とは<規範>と云って良く、つまり、自分と前提となる共通項を想定出来ない相手と云う事だ。“私にいえることは万人にいえると考えるような考え方” は独我論であり、そもそも他者とは 「踏み込む事の出来ない領域」 をもつ<他者性>を備えている。菅野は柄谷を援用しつつこう述べる。“クライエントがそのような他者であるからこそ対話(ダイアローグ)と云うものが成立するのだろう。わかり合えるような他者、他者性が捨象された他者とのやりとりは、じつはカウンセラーの自己対話(モノローグ)にすぎないのだ” と。

こうした感覚を持つとき 「共感」 がいかに深遠な態度であるかを思い知らされる。「共感」 がどうでも良いと云っているのではない。その逆である。重要であり、かつ、そう易々と口に出来るほど簡単なものではない、と云いたいのである。それでも、良い聴き手には「共感」の態度が必要だ。こうした認識を肝に銘じて取り組むほかないだろう。そもそも僕たちには、人の心など良く判らないのである。判らないからこそ判ろうとして 「聴く」 のであり、教えて貰うのだと思う。

【文献】
・菅野泰蔵(2006)「カウンセリング方法序説」日本評論社
・柄谷行人(1992)「探究Ⅰ」講談社学術文庫


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