ぼんやりと書棚を眺めていて、不意に懐かしい小説が眼に留まったので読み返してみた。その主題については、ここでは置いておくとして、そのなかのあるフレーズが印象深く心に残ったので少し長くなるが引用してみたい。
私は、喋ったことを理解して欲しいとは思っていないの。だから本当のことは言わないかもしれないし、私自身が信じていなくても、相手が喜びそうなことだけ話すかもしれないし、……気が向かなかったら何ひとつ言葉にしないかもしれないし、ね、結局、誰でも自分にしか通じない言葉で喋るんだとは思わない?(増田,1987)
僕たちは誰しも自分の思うところを、そっくりそのまま言葉にのせて、同一の内容を相手に届ける事は出来ない。何故なら、他者との対話において僕たちの語る言葉は、必ず相手のなかで別の事を意味してしまうからだ。もし仮に、思いをそっくりそのまま伝えられる世界があるとすれば、それは自己対話の世界でしかないだろう。
自分と同じ他者がいる世界(多少譲って、自分に当てはまる事が万人に当てはまる世界、としても良いかも知れない)。そんな世界など在りはしない。実際に僕たちは誰かと話しながら、いつも心のどこかで通じ合わない部分を持っているのが普通だ。自分の喋った事が別の事を意味してしまい、それを軌道修正するために重ねた言葉がまた別の事を意味してしまう。これが現実だろう。
人は誰しも自分にしか通じない言葉で話す
だが、それでも僕たちは語り続ける他ない。それはそうなのだが、ここで気を付けたいと思った事がある。もし、この様な言葉の不自由さ、もしくは、僕たちが<個>である事に語る望みを失い、「話しても無駄だ」 「云うのは虚しい」 「言葉には出来ない」 「誰にも話せない」 と感じた時、人は口を閉ざすだろう。語られようとしたその思いはその人のなかに抱え込まれる。しかし、そこでもし、確かに言葉では言い尽くせないにしても、そこから零れ落ちる何かを汲んでくれる相手だと感じられたらどうだろう。その思いは解き放たれる可能性を持つのではないだろうか?
そう云うものに私はなりたい……と、云う事で、日々このような事を肝に銘じつつ取り組んでいる。
【文献】 増田みず子(1987)「自殺志願」 福武文庫
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