たとえば、僕はしばしば飲み屋で独りで酒を飲むが、そこでは、様々な人と知り合いになるし友達にもなる。そうしたなかで、特に良い出会いと云えるようなものや、我知らずと意気投合してしてしまうような出会いと云うものには、必ず共通するものがある。と云えば、いかにも大袈裟だが、実は簡単な事だ。共に関心を持っている事柄が間にある、と云う事である。もちろん、なんら関心を共有しない相手とは会話を交わす事すら難しい。それが天気の事であったり、無造作に店内に流れるテレビの事であったとしても……。
そう云う意味では、知り合いになる以上はその相手と何かしらの話題を共有している訳なのだが、さきに述べたような出会いに共通しているのは、もっと積極的な意味での関心の共有である。端的な例で云えば、共通する趣味であるとか、そう云った事だ。見ず知らずの相手と話す時、僕たちは、無意識に共通の話題を探す。そしてそれに、互いが寄せる関心が高いほど、人は話にのめり込む。そして意気投合、と云う事になるわけで、いたって簡単な事実だ。だがこの簡単な事柄を、僕たちは簡単に忘れてもしまうのてある。
人間関係が上手く築けないと感じたり、会話が繋がらないと感じたり、人の話を上手く聴けていないと感じたりする時だ。そこには互いが深く関心を寄せるものが欠けている。そしてこの事は逆にも云える。関心を共有出来れば対話は深まるし、対人関係は円滑になると云う事だ。当たり前の事の様に思えるが、僕たちは、自分の話を相手が興味深く聴いていると思えば語りに熱がこもる。その事を忘れてはいないだろうか。つまり、相手の話を聴く時、その話に関心を持って聴けているか、と云う事である。ただ聞くのではなく……。
共感的に話を聴くことが大切だ、とはよく云われる。だがそれは、そう易しいものではない。しかし、意図的に関心を寄せる事はそれほど難しいことではない。何故なら、人はどんな事からでも学ぶことが出来るし、関心を持つだけなら、それほど感情の操作は必要ないからだ。けれど、それに反して、関心を持たれる事の意味は大きい。たとえば、子供と話す時を考えてみればよい。こちらが関心を持って聴けば、子供達は実に色々な事を熱心に教えてくれるのを僕たちは知っている。そういう事だ。そして、関心には質問がつきものだが、質問は相手に発言を強いると云う性格もある。そこへもってきて人は教える事が好きでもある。
まずは相手の話に、そして相手自身に、関心を持ってみること。つまり関心を共有すること。それが良く話を聴くことの第一歩ではないだろうか。聴き上手は話し上手でもある。相手と良い関係を築いたり、相手を理解したいと思う場合、関心を持って相手の話を聴くことが全ての始まりだと思う。共感的理解を云々するその前に、である。
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