話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

タグ:共感


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些細な工夫_20160517

たとえば、僕はしばしば飲み屋で独りで酒を飲むが、そこでは、様々な人と知り合いになるし友達にもなる。そうしたなかで、特に良い出会いと云えるようなものや、我知らずと意気投合してしてしまうような出会いと云うものには、必ず共通するものがある。と云えば、いかにも大袈裟だが、実は簡単な事だ。共に関心を持っている事柄が間にある、と云う事である。もちろん、なんら関心を共有しない相手とは会話を交わす事すら難しい。それが天気の事であったり、無造作に店内に流れるテレビの事であったとしても……。

そう云う意味では、知り合いになる以上はその相手と何かしらの話題を共有している訳なのだが、さきに述べたような出会いに共通しているのは、もっと積極的な意味での関心の共有である。端的な例で云えば、共通する趣味であるとか、そう云った事だ。見ず知らずの相手と話す時、僕たちは、無意識に共通の話題を探す。そしてそれに、互いが寄せる関心が高いほど、人は話にのめり込む。そして意気投合、と云う事になるわけで、いたって簡単な事実だ。だがこの簡単な事柄を、僕たちは簡単に忘れてもしまうのてある。

人間関係が上手く築けないと感じたり、会話が繋がらないと感じたり、人の話を上手く聴けていないと感じたりする時だ。そこには互いが深く関心を寄せるものが欠けている。そしてこの事は逆にも云える。関心を共有出来れば対話は深まるし、対人関係は円滑になると云う事だ。当たり前の事の様に思えるが、僕たちは、自分の話を相手が興味深く聴いていると思えば語りに熱がこもる。その事を忘れてはいないだろうか。つまり、相手の話を聴く時、その話に関心を持って聴けているか、と云う事である。ただ聞くのではなく……。

共感的に話を聴くことが大切だ、とはよく云われる。だがそれは、そう易しいものではない。しかし、意図的に関心を寄せる事はそれほど難しいことではない。何故なら、人はどんな事からでも学ぶことが出来るし、関心を持つだけなら、それほど感情の操作は必要ないからだ。けれど、それに反して、関心を持たれる事の意味は大きい。たとえば、子供と話す時を考えてみればよい。こちらが関心を持って聴けば、子供達は実に色々な事を熱心に教えてくれるのを僕たちは知っている。そういう事だ。そして、関心には質問がつきものだが、質問は相手に発言を強いると云う性格もある。そこへもってきて人は教える事が好きでもある。

まずは相手の話に、そして相手自身に、関心を持ってみること。つまり関心を共有すること。それが良く話を聴くことの第一歩ではないだろうか。聴き上手は話し上手でもある。相手と良い関係を築いたり、相手を理解したいと思う場合、関心を持って相手の話を聴くことが全ての始まりだと思う。共感的理解を云々するその前に、である。


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話し相手_20160414

話下手で困る。上手く話したい。雑談が苦手。そんな話を良く耳にする。だが、演説やプレゼンを別にすれば、既に云い尽くされた事だが 「話し上手は聴き上手」 この言葉に尽きている様に思う。

そこで、今回は僕がお話を聴かせて頂く際の大前提と、話す事の意味について少し触れておきたい。もちろん、「傾聴技法」 云々と云う話ではなく、むしろ傾聴の前提とでも云うべき心構えの様なものと、自分を語る事の意味、そんな事柄である。

相手を尊重し否定せずに感情を理解する

ごく当たり前の事だが、否定したり批判したりすれば相手は話せなくなる。あるいは怒って云い返したり、傷ついたりと別の感情を呼び起こす事にも繋がる。会話すること自体で充たされる「自己充足的コミュニケーション」ではもちろんのこと、問題解決の為に考えを練り高めるタイプのコミュニケーションであっても、否定から入ったのでは話は深まらない。それよりもまず、相手を理解する事の方が重要である。そして更に、語られた感情に善悪などありはしない。「悲しいのでビルから飛び降りたい」 と云う語りでさえ、「悲しい」 と云う感情と 「飛び降りる」 と云う行動とは別物である。それならば、まずはその悲しみが理解されてしかるべきだろう。とは云え、当たり前の事が難しい。一度、全く相手を否定せずに話を聴く、と云う試みをしてみれば判るだろうと思う。

言葉の背後にあるものに思いを馳せる

だが、理解したことを相手に伝えなければ意味がない。それは 「相槌」 や 「頷き」 であるかも知れないし、相手の言葉を 「繰り返し」 たり 「心配なんですね」 と確認することかもしれない。また時には、相手の言葉を 「言い換え」 たり 「要約」 して伝え返すことかも知れない。いずれにしても理解した事柄や感情を相手にフィードバックしなければ、相手からすれば、こちらが聴いているのか、理解したのか、誤解したのか判らない。そしてフィードバックがあれば、こちらの理解がズレていれば修正してくれるだろう。つまりそれは 「私はこう理解したけれど合っていますか?」 と問う事と同じ意味を持つ訳である。ここで重要なのは、相手に伝えるかどうかは別として、語られた言葉や表情の背後にある意味に思いを馳せておくことである。本当の感情や思いが言葉にならないことなど幾らだってある。

感情や問題を明確にして行く応答を試みる

往々にして事態の当事者と云うものは混乱してるのが普通だし、冷静さを欠いたり、感情に絡め取られている事も良くある。また、自分の本当の気持ちに気付いていない事も。上記のフィードバックは、自分の考えや感情を客観的に視る手助けとなる。「自分はこう思っていたんだ」 「ああ云ったけど少し違う気がする」 と内省する事もあるだろう。また 「好きだけど憎らしい」と云った思いなら 「『好きだ』と云う気持ちと『憎らしい』という気持と、両方があるんですね」 と返されれば整理に繋がるかも知れない。「と、おっしゃいますと?」 「それはこう云う事ですか?」と質問され新たな気付きを得るかも知れない。語りつつもシックリきていない事を的確な言葉で言い換えられて 「それッ!」 となるかも知れない。いずれにせよ、解決の切っ掛けになったり、対話が深まる事に繋がるのではないだろうか。

語る事はカタルシス

と云う訳で、とかく話し方について云々されることが多いが「話し上手は聴き上手」と考えた時、僕が話を聴かせて頂く際に注意している大前提について触れてみた。ところで、自分を語ると云う事には、次の様な意味があると云われている。(1)相手に判って貰うために自分の考えを判り易くまとめようと無意識にするので、自分でも曖昧だった感情や思考が明確になって行く(思考構築)。(2)と同時に、表現する事はまた、自分自身の感情や思考を受容する事にも繋る(自己受容)。(3)そしてまた自分の過去の経験を語る事は、その体験とそれに伴う感情とを再び味わう訳で、それらを整理し受け入れていく事にも繋がる(感情再体験)。(4)最後に、見出しにもした浄化作用である。人は自分のなかの鬱積した感情、あるいは再起された感情を吐露する事で、それらの感情から解放されて行く(カタルシス)

話し相手に語ること。語ることそのものが宿す癒しの力を信じて、僕はこのような前提に立っている。だがしかし、それでも、誰しも自分にしか通じない言葉で話すところの他者を、本当にはわからないのかも知れない。だからこそ、日々わかろうと努め耳を傾けるのである。


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