話し相手_20160314


どうも違和感を感じる事がある。今に始まった事ではないのだが、どうも巷には 「寄り添う」 が妙に氾濫しているように思えてならないのだ。最近の事柄で云えば3月11日に関してでも良い。被災者に 「寄り添う」 支援、など云った云い方が頻りにされる。メンタルヘルスに関してなら、不調者に 「寄り添う」 ケアの必要性、と云った論調である。

あり得べからざる誤解を避けるために述べておくが、僕が云いたいのは 「寄り添う」 対人援助が必要ないと云った事では決してない。支援において 「寄り添う」 姿勢は必要に決まっている。いや、それこそが最も大切な事は云うまでもない。そうではなく、僕が云いたいのは、「寄り添う」 と云う言葉が、お気軽に使われ過ぎてはいないだろうか?と云う事である。

「寄り添う」 そう云えば何となく、ある暖かい雰囲気を共有する様な感じがする。だがそれは、そう底の浅い問題ではないだろう。寄り添うとは 「ぴったりとそばに寄る」(大辞林) と云う事には違いないが、巷で云われる 「寄り添う」 とは、本当にそう云う意味で云われているのだろうか?

この言葉を思う時に思い出す事がある。テレビドラマなのだが……ある警察官僚と詰まらない犯罪を犯してしまった男と。二人は学生時代の同級生。紆余曲折ありつつ犯罪者の男が逮捕された時、上層部の男がポツリと言う 「奴には借りある」 何かと云えば、当時、上層部の男の父が死んだ時、犯罪者の男が夜の川辺で隣にいてくれて、一晩中、ただのひと言も云わず一緒にいてくれたと云うのである。

また、こんな事を考えていた時に届いたメルマガにこんなのもあった。「高校生位の女の子たちを例にとりましょう。高校生が川べりかどこかで、二人で座っていたとしましょう。一人は何かあって、泣いていました。その横で、もう一人が黙って座っていたとします。余計なことは何も言わず、ただ黙って横にいる。もしくは、同じ方向を向いたまま、同じように涙を流し、横にいる」

例えば、「寄り添う」 とはこんな事だ。それは 「何かをしてあげなければ」 と云う思いからでは出来ない行為だ。いやむしろ、当事者と同じ想いを共有した時、ただその想いに呑み込まれて隣で佇む事しか出来ない。ありありとその感情を思った時、同じ気持ちで隣にいる事しか出来なかった、と云う事かも知れない。だが、それが普通だ。

そんな当たり前でありながら、真摯な態度。それこそが 「寄り添う」 と云う事であり、気安く溢れかえるその言葉にそう云う意味が汲み取られているのか、どうも違和感を感じる今日この頃なのである。


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