話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

タグ:対話


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既に夏も終わりを告げ、生きがいのある気候になってきた。そんな秋の気配に誘われて、先日は、六甲山にある 「神戸ゴルフ倶楽部」 でラウンドしてきた。なんとも場違いな記事の様な気もするが、それでも、関係はなくもないのである。

ところで、神戸ゴルフ倶楽部と云えば日本最古のゴルフ倶楽部として知られている。1903(明治36)年 Arthur Hesketh Groomにより開場。Adamson&McMurtie設計。4,049ヤード&パー61の歴史的なコースである。伝統に裏打ちされた倶楽部ハウスに、山の上のリンクスと云っても過言ではないスコットランド風のフェアウェイは、ゴルフの歴史を感じさせられる魅力的なコースだ。

パー61と侮ることなかれ。ショートコースと云って良いのではないか?などと戯言を云っていると痛い目を見ることになる。山岳コースの典型と云うべく距離は短いがグリーンは小さく、フェアウェイやグリーンを外せば深いラフが待ち受けている。アンジュレーションに富んだフェアウェイはボールが完全に止まるまで安心できない。まさにリンクスと云うべきタフなコースだった。

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もちろん電動カートなどありはしない、倶楽部が用意した小型のキャディバックにクラブ10本を移し替え、バッグを担ぎ歩いてのラウンドだ。それだけでもタフなうえ、激しいアップダウン。時折、神戸の街並や港を、眼下に見下ろす事が出来るのは素晴らしいが、後半は、自分が打ったボールの位置までたどり着くだけでも息が切れそうになってくる。こうしたコースをラウンドする際に大切なのは、やはりコースとの対話、と云う事になるのではないだろうか?

どこへ打つか? のその前に、まずコースを理解することだ。 (もっとも、どこへ打つか、と云っても、思った通りに打てる訳でもないのだが……。)

さて、ここで、傾聴的な対話の構造とは、次の様なものだ。相手の発話を 「聴く」 → 「理解する」 → 「(理解したことを)応答する」。もちろん応答の種類はこれだけではないが、まずはこれが基本である。これ繰り返して行けば 「対話」 となる。もっとも重要なのは 「正確に聴き」 「正確に理解する」 ことだが、この時、理解するとは発話の内容だけでなく、それを話した相手の事をも理解することである。そうでなければ、気持ちを分かち合う事など出来はしない。

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ラウンドで云えば、まずコースを良く眺め、さらに良く視る事。そして設計の意図を理解し、それに見合った戦略を立てるという事になるだろうか。正直なところ、今回のラウンドは素晴らしいコースに苦戦を強いられたわけだが、それはショットの精度もさる事ながら、コースとの対話が足りなかったのかも知れない。


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なくて七癖と云われるように 「癖」 は誰にだってある。そのなかでも 「口癖」 は、対人関係や、行動、感情に大きな影響を与える。巷でよく云われるのは、ネガティブな口癖を見直すことで、思考や行動を変化させようと云う事である。例えば、「どうせ」 「……なんか」 「ダメだ」 「疲れた」 「仕方がない」 「できない」 「わからない」 などが代表的で、こうしたフレーズを口癖にしていると、実際に思考や行動がネガティブなものとなり、実際に不幸な現実を呼び寄せると云うものだ。

これはある意味で真理を衝いているのだが、その真偽はともかくとして、ここでは、そうしたなかでも現実的に対人関係やコミュニケーションに影響を及ぼす否定的な口癖を考えてみたい。具体的には、「でも」 「しかし」 「だって」 である。他にもあるだろうが、差し当たりはこれだけでも十分だろう。

会話のなかでこれらのフレーズが使われる場合、その機能は明らかだ。つまり相手の言葉や感情、行動を否定する機能である。話し相手に対する非承認の言葉。否定されて喜ぶ人間はいない。もちろん、議論の場では、考えを練り高めるうえで必要ではあるだろう。だが、それだってあまり連発すれば議論は低調に終わる。 場合によっては、相手は怒り出すかもしれない。

そこで、よく云われるのが 「イエスバット法」 であり 「イエスアンド法」である。前者は 「そうですよね。でも……」、後者は 「そうですね。それなので……です」 と云った云い回しである。確かに相手を否定するニュアンスは薄れるだろう。だが否定には変わりがなのは明らかだ。円滑なコミュニケーション、特に良好な人間関係を目指すのなら、まずは言葉を挟まず 「聴く」 ほうが遥かに重要である。

その意味で、「でも」 「しかし」 「だって」 は要注意だ。あからさまな否定の言葉。自分の発話から撤廃してみるのも良いのではないだろうか? まずは云い方を変えるてみる、と云った小手先の方法でも何でも構わない。とにかく、一度、それらの単語を撤廃して様子をみてみるのはどうだろう。きっと何かが変わっているのではないだろうか。

とは云え、こんな事を書いている僕だって 「口癖」 はある。最悪な事に、何を隠そう、「でも」 である。もちろん、つい使いたくなるのは、相手のネガティブな発話の肯定的な側面にフォーカスする時なのだが、しかしだからと云って否定でない訳ではない。「イエスバット法」 「イエスアンド法」 と何ら変わらない。当面の全廃に向けて、鋭意努力中である。


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