話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

タグ:対話の効能


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話し相手20160815

頻繁に言葉にされるわりに 「不安」 と云うのはどこか捉えどころのない感情だと思う。しばしば「理由のない不安」「理由のある不安」などと云った云い方がされるが、たとえば、健康が不安、業績が不安、と、明確な理由や対象があるような場合でも、どこかしら漠然とした雰囲気が漂っているように感じるのは僕だけだろうか。しかも、だからと云って淡い感情かと云えばそうでもない。いても立っても居られないほどに不安だと云う事は良くあるし、簡単には失くならず常に心のどこか居座っていると云う事も良くある。なんとも厄介な不快で苦しい感情である。

心配事を抱えている時の不快な感情は、その意味では「恐怖」に近いのかも知れない。不安の場合 「何が不安かと訊かれても困ってしまう」 「妙な不安だけが常にある」 「うまく言葉で表現できない」……etc.と云った事態はありふれているし、心の内側から突き上げてくるような、今にも何かが起こりそうな、表現し難く、他者に判って貰えなそうな感情でもある。それ故、孤独感とも結託しやすいし、一方では、動悸や過呼吸状態などの身体の不具合とも結びつきやすい。まさに、とらえどころのない深い闇、と云ったところだろうか。しかも、誰にとっても身近に感情であるのが悩ましいところである。

そう考えると僕たちが不安に苛まれるとき、当面の何かしらの不安の対象、つまり理由を纏っていたとしても、その根底にはもっと深い源泉がある様にも思えてくるのである。それは、煎じ詰めてしまえば、自分が死ぬことを知っている唯一の動物である人間の「死への不安」だったり、母体から出産・分離された人間の 「親の愛を失う不安」 だったりするのだろうが、要は 「自分の存在の安定が何らの事柄によって決定的に揺さぶられるときに」 に生じるの感情だ、と云って良い様な気もする。なんだか小難しく大袈裟な云い回しだが、僕たちにとってそれは往々にして 「対人関係」 であろうし、相容れない2つの思いの「無意識の葛藤」だろうし、認めたくない自分の心の在り様かも知れない。

こうした不安を和らげ低減するには、一般に云われるように呼吸法や音楽やアロマなどのリラクゼーションも良いだろうと思う。さらに、まずは不安な感情を受け入れ当面の理由を明らかにし自分の心に整理をつけて行くのも良いだろう。もちろん休養だって必要かもしれない。そうしたことで心的エネルギーが回復してくれば、不安な感情は心のダムの底へと姿を消すことも多いだろう。また「対話の効能」 として、話すことで気持ちを 「分かち持って」 貰うと云うのもある。理由の判らない不安、人に理解されづらい不安を分かって貰う事は、不安の重荷を半減させるのではないだろうか。

と云って、それだけでは拭い難く付き纏う不安もあるだろう。まずは当面の不安の源を辿って行き、ゆっくり整理して行きながら「結ぼれ」をほぐして行く事が必要だとしても、さらに、そのあたりを手掛かりにして、自分の感情を整理したり、気付いたり、受け入れたり、パーソナリティの傾向を理解したりすることが必要な時が来るかもしれない。「対話の効能」には、自分が見えてくると云うのもある。話しいているうちに、ひとりでは見えなかった自分の内面が見えてきて、記憶が甦ってきたり、発想が湧いてきたり、考えや気持ちが整理されたり、と云う事がしばしばある。得体の知れない不安をひとりで抱え込むよりは幾分は楽なのではないだろうか。


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話し相手20160810

自分を取り巻くこの世界に違和感を最初に感じたのはいつだったろう? 上手く言葉に出来ないながら、云い様のない生きづらさの様なものを感じたのは、僕の場合は思春期から青年期にかけての頃だったように思う。中学から高校あるいは大学前半の頃だろうか。もちろん楽しい季節でもあった。だが、どうにも息が詰まるような閉塞感と理不尽さ、そこに自分がいることの違和感の様なものを、感じ続けていたように思う。

そう 「生きづらさ」 と云うより他に、しっくりとくる言葉が見つからない。だが、と云って、病気を抱えていたり、家庭の事情に不具合があったり、迫害を受けていたり……etc.と云った具体的な事情による生きづらさではない。当時はそんなことを思いもしなかったが、今になって思えばその時期と云うのは、同性同年輩の親密な友人づくりだったり、「性的成熟」や「他者から見られる」自分の身体と出会ったりする時期である。そして「自分とは何か」の問いも訪れる。そうしたなかでの違和感であり生きづらさである。

何気ない日常のなかで出来事に振り回され、また、突き上げる衝動に突き動かされつつ、流されるように日々を過ごしてはいたものの、実は、そんな問題に翻弄されていたが故の、生きづらだったのかも知れない。と、今ならそう思う事も出来る。だが、こうした生きづらさは、別に青年期の専売特許ではない。大人になったからと云って、似た様な生きづらさに捉われることなど、僕たちの日常にはありふれている。

職場における「同調圧力」に悩み、ウンザリする事はないだろうか。逆に、自分は周りの人と明らかに違っており特殊だ変だと感じる事はないだろうか。あるいは、別に何かされる訳ではないけれど、所属する組織にどうしても馴染めない、だったり、この世界に自分の居場所などない、そう漠然と感じる事があるかも知れない。また、今の生活は 「本当の自分」 なのだろうか、と悩んだりするかも知れない。理解されない孤独に苛まれるかも知れない。

社会的動物でありながら他者を介してしか自己を認識出来ず、かつ、他者からの承認を要求せざるを得ない人と云う生き物は、こうした実存的な苦悩と、完全に無縁ではあり得ない。陳腐な云い回しで気恥ずかしい限りだが、煎じ詰めれば 「自分探し」 的な、あるいはアイデンティティ(自我同一性)の問題とも云えるのだろうが、この部分における生きづらさを抱え続けるのもまた苦しいものである。

だが、僕たちに出来る事と云えば、自己の存在の孤独と闘いながら、取り巻く世界を自分にとって生き易いものへと捉え直す(認知的世界を再構成する)事、また、当面の納得がいく自分を獲得する事ぐらいのものだろう。けれど、それが簡単に出来るのなら 「生きづらさ」 など感じたりはしない。とは云え、他者によって脅かされた心性の乱れを回復させるものまた他者である、とも云える。

「対話」には自分を客観的にみる契機が得られると云うメリットがある。たとえば、誰かと話しているうちに、自分が考えている事が良く判ったと云う事がないだろうか。そうではなく、話しているうちに、自分が奇妙な考えに陥っている事に不意に気づいた、と云う事はないだろうか。あるいは、思っていたほど特別でもないと自分を相対化出来た事も。また、誰にも理解されないと思っていた感性を分かった貰えた時、心強さの様なものを感じた事はないだろうか。また、周囲との関係の取り方に新たな視点を得た事はないだろうか。

もちろん 「対話」 が万能な訳ではない。と云って、この様な「生きづらさ」をひとり抱えて苦悩し続けると云うのも過酷である。万能ではないかも知れないが、少なくとも 「対話」 には、その重荷を分かち軽くする機能はあるだろうし、自分自身を見詰め直す契機ぐらいは秘めている。世界を変える事など出来ないのだろう。だが、どうなもならない世界を自分にとって生き易く捉え直すことは無意味ではない様に思う。


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