誰にだって忘れられない思い出と云うものがあるだろう。それが嬉しい思い出ならば良いけれど、そうとばかりも行かないのが世の常でもある。甘く切ない思い出ならば、その苦しさも 「ほろ苦い」 で済むだろうが、「思い出したくもない」 「忘れてしまいたい」 「なかった事にしたい」 つらい記憶に苦しむことも、時として人にはある。
裏切り、過失、事故、背徳、あるいは犯罪被害、不意の死別……etc.望むと望まざるとに関わらず、訪れた悲劇もあれば、自らの至らなさが招いた災厄もあるだろう。思いもよらず逆の結果、と云ったものだってあるだろう。「過去と他人は変えられない」 と云われるが、そんな言葉を拒むほどの、深刻な思い出が時としてある。
だか、しかし、それでも、やはり過去は変えられない……。
そうして負った心の傷は、治癒して消えてなくなると云った類のものではない。傷を負わせた出来事や、傷そのものは、記憶として、当事者の心のなかに残り続けるからだ。では僕たちは、過去の記憶に、心の傷に、苦しみ耐え続けねばならないのだろうか。傷が癒えることはないのだろうか。
「傷は癒すものではない。忘れるものだ」 と云う事も出来る。何故なら、傷が消えない以上、癒えた状態とは、当事者にとって傷が問題はではなくなった状態、と云わざるを得ないからだ。忘れる事など出来ないにしても、心のなかのしかるべき場所に収め、ノートの頁をめくる様に悲しめる状態とでも云えば良いだろうか。
だが、忘れられない記憶が苦しいと云う事は、少なくとも、そこに至る端緒にはついている、と云えるだろう。記憶を無意識へと押しやったりせずに向き合っているから苦しいのである。そこへ至る道のりは、それらの記憶を心のなかで反芻し消化し受容して行くプロセスを辿る事でしかない。
たとえば、愛する人との死別なら、次のような心的過程も想定できる。1.衝撃と不安:愛する人を失った衝撃と不安とに襲われる。2.思慕と執着:心のなかに再生しようとする。3.再生・理想化:失った相手を理想化する。4.同一化:自分を相手に重ね合わせる。5.悔みと償い:相手との良い関係がクローズアップされ悔みと償いの罪悪感に駆られる。6.怯え罪悪感:生前、相手に対して抱いていたネガティブな感情に起因して罪悪感に怯える。
もちろん、つらい記憶は死別だけではないし、死別の心的過程にしてもこれだけではないかも知れない。だがしかし、いずれにせよ、たとえばこうした過程を、反芻し、消化し、受容して行くプロセスを辿る事でしか、それを適切な時に適切に悲しめる状態には、至らない様な気がする。無論、平坦な道ではないと思う。けれど、それでも僕たちは解放されたい。その苦痛から。
そうした時、やはり 「対話」 が助けになるのだと思う。語源的に「話す」は「放す」に繋がり、心の蟠りや結ぼれから解き放たれる事もある。人は話す事でそれを再体験し、感情が整理され、自然な形での受容が促される。そんな作用が「対話」にはある。と云えば綺麗ごとに聞こえるが、つらい記憶の受容の道はつらい道程である。気持ちを分かち合って貰う伴侶をともにしたって悪くはないだろう。それで少しでも荷が軽くなり、心が軽くなり、足取りが強くなるのなら。
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