話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

タグ:対話の効能


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話し相手20160808

誰にだって忘れられない思い出と云うものがあるだろう。それが嬉しい思い出ならば良いけれど、そうとばかりも行かないのが世の常でもある。甘く切ない思い出ならば、その苦しさも 「ほろ苦い」 で済むだろうが、「思い出したくもない」 「忘れてしまいたい」 「なかった事にしたい」 つらい記憶に苦しむことも、時として人にはある。

裏切り、過失、事故、背徳、あるいは犯罪被害、不意の死別……etc.望むと望まざるとに関わらず、訪れた悲劇もあれば、自らの至らなさが招いた災厄もあるだろう。思いもよらず逆の結果、と云ったものだってあるだろう。「過去と他人は変えられない」 と云われるが、そんな言葉を拒むほどの、深刻な思い出が時としてある。

だか、しかし、それでも、やはり過去は変えられない……。

そうして負った心の傷は、治癒して消えてなくなると云った類のものではない。傷を負わせた出来事や、傷そのものは、記憶として、当事者の心のなかに残り続けるからだ。では僕たちは、過去の記憶に、心の傷に、苦しみ耐え続けねばならないのだろうか。傷が癒えることはないのだろうか。

「傷は癒すものではない。忘れるものだ」 と云う事も出来る。何故なら、傷が消えない以上、癒えた状態とは、当事者にとって傷が問題はではなくなった状態、と云わざるを得ないからだ。忘れる事など出来ないにしても、心のなかのしかるべき場所に収め、ノートの頁をめくる様に悲しめる状態とでも云えば良いだろうか。

だが、忘れられない記憶が苦しいと云う事は、少なくとも、そこに至る端緒にはついている、と云えるだろう。記憶を無意識へと押しやったりせずに向き合っているから苦しいのである。そこへ至る道のりは、それらの記憶を心のなかで反芻し消化し受容して行くプロセスを辿る事でしかない。

たとえば、愛する人との死別なら、次のような心的過程も想定できる。1.衝撃と不安:愛する人を失った衝撃と不安とに襲われる。2.思慕と執着:心のなかに再生しようとする。3.再生・理想化:失った相手を理想化する。4.同一化:自分を相手に重ね合わせる。5.悔みと償い:相手との良い関係がクローズアップされ悔みと償いの罪悪感に駆られる。6.怯え罪悪感:生前、相手に対して抱いていたネガティブな感情に起因して罪悪感に怯える。

もちろん、つらい記憶は死別だけではないし、死別の心的過程にしてもこれだけではないかも知れない。だがしかし、いずれにせよ、たとえばこうした過程を、反芻し、消化し、受容して行くプロセスを辿る事でしか、それを適切な時に適切に悲しめる状態には、至らない様な気がする。無論、平坦な道ではないと思う。けれど、それでも僕たちは解放されたい。その苦痛から。

そうした時、やはり 「対話」 が助けになるのだと思う。語源的に「話す」は「放す」に繋がり、心の蟠りや結ぼれから解き放たれる事もある。人は話す事でそれを再体験し、感情が整理され、自然な形での受容が促される。そんな作用が「対話」にはある。と云えば綺麗ごとに聞こえるが、つらい記憶の受容の道はつらい道程である。気持ちを分かち合って貰う伴侶をともにしたって悪くはないだろう。それで少しでも荷が軽くなり、心が軽くなり、足取りが強くなるのなら。


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話し相手20160803

よくよく聴いてみると 「人付き合いが苦手」 と云う人は意外に多い。もっとも、これは 「私……意外と根暗なんです」 と云うのと同様に、誰もが持っている人としてのある側面であって、誰にでも当てはまるのかも知れない。とは云え、人の悩みのほとんどは対人関係に関連していると云って過言ではないだろう。職場や学校、家族、友達、親類、地域……etc.みんな人間関係が絡んでいる。たとえば 「自分の生き方」 についての悩みだとしても、やはり人間関係が彩をなす。逆に云えば、人は多少の困難を抱えていても、人間関係が絡まなければ、さほど悩まないのかも知れない、とさえ思える。

それはともかく、では、どうして、人間関係がこれほどに問題になるのか?と云えば、人間は社会的な動物なだけでなく、「人は外界(他者)を通じてしか自己を認識出来ない存在」 だからだ、という根源的な問題に辿り着く。「人からどう思われようが構わない」とは、なかなか簡単には行かない訳ある。対人恐怖、と云えば、あまりに大袈裟だが、こんな事はないだろうか?

「中途半端な知り合いが苦手」「3~10人位の小集団が苦手」「3人状況が苦手」「雑談的状況が苦手」。もちろん、それぞれに個別の要素はある。だが共通している事柄もないではない。それは、その場における自分の評価(見られ方)が定まっていない、あるいは定まりにくい状況である、と云う点である。つまり自分がどう見られるか判らない状況。正直、僕も得意な状況とは云えない。

こう書けば 「人付き合いが苦手」と云いつつ、たんに 「人から良く見られたい」 「受け入れられたい」 「傷つきたくない」……etc. だけなのではないか? と云われそうだが、そうではない。人には誰しも 「承認欲求」 がある。「人は外界を通じてしか自己を認識出来ない」のだ。誰だって多かれ少なかれ認められたいのである。そうした自己の承認欲求が脅かされる状況は、誰だって当然に苦手なのである。特異な事態ではない。

まずは、それを受け入れる事が大切なのだと思う。もっと具体的な対人関係で悩んでいるのだとしても、そうした自分を受け止めたうえで、つまり判ったうえでの方が対処し易いだろう。もちろん、有り余るほどの 「承認」 と 「愛情」 とを受けて育ち、状況に左右されない確固たる自己を確立していれば、対人関係などには悩むまい。だが悲しいかな、そんな人間はいはしない。多かれ少なかれの違いにすぎないのである。誰しもが承認の欠損を多かれ少なかれ抱えている、という視点は、大切な人を 「愛せない」 「受け入れられない」 などと云ったケースを考える場合にも有効だと思う。

と同時に、人間関係、対人関係と云う以上は、関係論でもある。コミュニケーションの問題として対応出来る場合もある。端的な方法として、具体的な付き合い方や話し方を変更する事で、対人関係が改善することは幾らだってある。問題は、渦中にある自分には、変更方法が見えにくいと云う点である。その意味では、外部の視点を導入するのは有効かも知れない。また当然に、その関係性は 「感情」 に彩られてもいる。怒りや、愛しさ、悔しさ、憎しみ、羞恥……etc.だが 「悩みが悩みでなくなる時」 でも指摘したように、関係性から感情が発生する訳ではない。相手の行動や発言、互いの関係を、自分がどう捉えているか(認知)によって感情は引き起こされる。その認知が適切なのかどうかを確認してみるのも大切ではないだろうか。何故なら、対人関係で悩むのはその感情に悩むのであり、行動は多少なりとも感情に左右されざるを得ないからだ。

人は日常生活を営むなかで人に悩まざるを得ない。それは人の原初的な宿命でもあろうが、人を求めざるを得ないのも宿命である。そして、人は誰しも100%無条件の肯定的関心のもとで育った訳でも、正確に周囲との関係性を把握している訳でも、適切なものの考え方をしている訳でもない。「対話」 を通じて穏やかにそれらを眺めてみることは、取り巻く人間関係を自分にとって生き易いものへと変えていくのに役立つのではないだろうかと思う。人は人に傷つくが人によって癒される。



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