話し相手20160926

気持ちを伝えるのは難しいと云われる。たとえばそれは、本当に云いたかった事と別の事を云ってしまうような場合もそうだろう。本当は相手の事を評価しているのに、悔しかったり照れ臭かったりして、素直に褒めたり評価を伝えられなかったりするような場合がある。また良く云われるのは、寂しかったり、悲しかったり、失望したりと云った感情が怒りとして表現される場合である。

帰宅の遅い夫や子供を待つ妻や母親はどうしたって心配なものである。そんな気持ちを抱えひとり帰りを待ち続けた末に、ようやく帰ってきた夫や子供の顔を見て、安心した途端に 「何やってたの!」 と妻や母親が怒りを表現する場合などがそうである。この場合、「心配」 や 「不安」 と云った感情が「怒り」の感情として表現されている訳である。本来なら「心配していた」「不安だった」 と伝えられるべき場面であるにもかかわらず……。

だがこうしたケースでは、本当の感情とは別の感情を表現している事が、薄々ではあるせよ本人が気付いている事が多い。だからこそ 「本当は心配だったんよ?」 と仲直り出来る訳である。あるいはそうではなく 「心配」 や 「不安」 と云った感情が、一時的に、本当に 「怒り」 の感情に転化している場合もある。ただ、いずれにしても気持ちを伝えるのは難しい、と云われるこうしたケースでは、自分の本当の感情に本人が気付きやすい場合と云える。

だが、僕たちは自分の感情を常に正しく感じ取っているのだろうか? たとえば女性に良く見られるが、本当は怒っているのに涙が零れて泣けてきて、自分は悲しいのだと思い込む様な場合がある。あるいは、自分より優れた成果を出し続ける人に対して過剰なまでに尊敬の念を抱くような場合、実は本当は悔しくて仕方ないのに、それを認めることを無意識的に避けていると云った事もある。また、社会的地位のある人から不当な扱いを受けているにも関わらず、その人の評価故に我知らずと自分を責めるような場合もあるだろう。更には、親から虐待を受けている子供の親に対する感情……と云った場合もある。

こう考えてみると、人は意外と自分の本当の感情をきちんと感じ取れていないものだと云う事が判る。本来の感情を別の感情で表現してしまう、などと云うのは、逆に云えば良くあるケースで、そもそも自分の感情がどういうものなのか自分でも判っていないと云う事もあるのである。また意識しなかったり、表現しなくても、人は様々な感情を抱くものである。何かに悩んだり、理由の判らない不快な気持ちに襲われたり、対人関係が上手くいかない場合など、改めて、自分は何を感じ、何を云いたいのか、振り返ってみるのは大切な事ではないだろうか。


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