話し相手20161002

同感と共感とを混同するな……とは傾聴やカウンセリングの場面で良く云われる事である。だが先日とあるテレビ番組を見ていて思った事がある。それはガン患者に対する心の緩和ケアについての番組を見ていてのことなのだが、不図、同感出来ればそれはそれで大したことではないだろうか? と云う事である。

かつてロジャース(Rogers,C.R)は、対象となるその人の 「私的な内面世界を、それが(あたかも)自分自身の世界であるかの様に感じとり、しかも『あたかも……の如く』と云う性質を決して失わない態度」 が共感的態度だと述べた。客観性や中立性を保ちつつ、その人の立場や心模様を正しく掴み、気持ちをそのままに汲み共有すること。

一方で、同感とは何か? その人と同じく感じたり考えたりすることが同感であると云われるが、その違いは、「同じ」なのか「あたかも同じように」なのかの違いである。日本語の「ように」は微妙なので「私も同じように感じています」と云う場合、これは事実上、同じ気持ちですと云う表明であり同感である。「自分があたかも相手自身であるかのように相手を内側から理解する」のが共感で、「自分が相手になり代りその相手自身としてその内面を理解する」のが同感だ、と云っても良いだろう。

応答レベルで云えば、大切な人を病気で亡くされた方にかける言葉として、
<同感>:『悲しくて辛い』『胸が詰まります』『どうしていいか判らない』
<共感>:『本当にお辛いですね』『悲しみで一杯ですね』『何も考えられないんですね』
と云う事になるだろうか。もちろん 「そうだよねぇ……」みたいなのものも同感である。

なぜ傾聴やカウンセリング場面ではこの二つを区別し、共感が大切にされ、同感する事を避けるのかと云えば、同感した場合、相手の体験や感情に自分自身(聴き手やカウンセラー)が巻き込まれたり癒着を起こし、客観性や中立性を保てなくなるのと同時に、話し手の感情や思考を聴き手が鏡の様になって伝え返すことが困難になるからだとされる。確かに尤もではある。だが、しかし、それでも僕が先のように思ったのは、テレビ番組のなかでガン患者には「可哀想だと云う偏見が社会にはある」「可哀想だと思われたくなくて人に言いづらい」と云う心情があると云う指摘を受けてである。

まず「可哀想」と云うのは、「偏見」と云う考え方やものの見方のことではなく、想いであり感情のことである。そしてそれは同情と云う感情であり、そこには弱い立場にあるものに対する上からの視線が多少なりとも含まれているだろう。ガン患者の方は、自分の置かれた状況を正確に理解して貰ったり適正に援助される事は望むかもしれないが、「不憫だから何とかしてやろう」と周囲や相手に思って貰いたい、などと考える訳がないのである。もしかすると「緩和ケア」と云うと、すぐに終末期ケアを連想する風潮があるのも、「可哀想だと云う偏見」なるもののせいなのかも知れないと思ってしまう。

いずれにせよ、「可哀想だと云う偏見」なるものがあるのだとしたら、正しく同感することかできるのなら、それはそれで大したものではないのか。多くの人々は同情なんて欲しくないのだ。それはガン患者に対する心の緩和ケアにおいても云えることで、同情などされたら緩和するはずがないのだ。その場合、共感の重要性は云うまでもないが、同情が蔓延っていると云うのなら、同感の方が遥かにマシなのではないだろうかと思った次第である。


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