円滑な対人関係を築くための自己表現を学ぼうと云う事で、皆さんと一緒に「改訂版 アサーション・トレーニング 」を読み始め「第1章 アサーションとは」では、自己表現の仕方をには3つのタイプがある事を知りました。
・非主張的:自分よりも他者を優先し自分の事を後回しにするタイプ。
・攻撃的:自分の事だけを考えて他者を踏みにじるタイプ。
・アサーティブ:自分の事をまず考えるが他者にも配慮するタイプ。
自分が行いがちな自己表現のタイプはどれかを内省し、日頃のコミュニケーションの癖を知っておくのがアサーティブなコミュニケーション(自他尊重=嫌われない自己主張)への第一歩と云う訳です。あるいはまた、コミュニケーションにストレスを感じる時など、その時の自己表現のタイプを考え反省すれば、次回に活かすことも出来るのではないでしょうか。
また、第1章では「アサーティブになるのを妨げる6つの要因」も挙げられました。最初の2つは 「気持ちが把握できていない」「結果や周囲を気にし過ぎすぎる」 と云う要因。
前者は、幼少期からの感情の抑圧などにより、自分で自分の本当の気持ちが判らなくなっている、と云うものです。折につけ、自分自身を見詰め、自分の本当に云いたい事に気付いておくのは有益だと云えるでしょう。
後者は、主に 「非主張的」 なタイプの自己表現についてです。相手に伝わらなかったり、拒否される失敗を恐れ、自分の気持ちを伝えないまま、相手に従い、欲求不満に陥る様なケースです。相手をコントロールすることなど出来ないのだと割り切ったうえで、けれど「適切」な云い方で、自己主張を行うことは必要だと思われます。
さて、3つめに挙げられたのは「基本的人権を使っていない」です。
「第2章 人権としてのアサーション」
日常生活において「気をつかう」「躊躇する」「ムキになる」etc.によって、云いたい事を云えなかったり、云い過ぎたりと云った事態は幾らでも起こります。ですがこれらの問題には、言い方以前の問題が潜んでいそうですと平木(2009)は述べます。
この問題に関して平木は、自己表現する(アサーション)するか否かの基準が、自分のなかにないからだ、と指摘しています。
非主張的な人は 「断る事はよくない」「迷惑はかけてはならない」「相手の気分を害する様な事は言ってはならない」と自分で決め込んでいます。また攻撃的な人は「やっていいに決まっている」と、これもまた自分本位の思い込みで、相手を押さえます(平木,2009)。 アサーティブな人は知ってか知らずか、自分勝手な判断はしていないと云う訳です。
その背景として平木(2009)は、差別撤廃運動に触れつつ、キング牧師の例を紹介し、人々は、攻撃的にならずに自己主張する方法を知り、自己主張する権利に目覚めていったと述べています。アサーションのよりどころは「自己表現の権利」と云う基本的人権を認めることにあるとし、アサーションにまつわる基本的人権を「アサーション権」と呼びます。代表的なもの5つ紹介しており、これらが先の判断基準になると云います。
アサーション権Ⅰ: 私たちは誰からも尊重され大切にして貰う権利がある。
「アサーション権Ⅰ」。これについては自明だと思われます。人間の尊厳は不可侵です。ですが、私たちは日々、自分で勝手に決めた価値観や共同体の慣習、自己の行動基準によって、これを容易く放棄していないでしょうか。次のような事例が挙げられています。バスがなくなる時間には、妻が駅まで、車で夫を迎えに行く事になっているご夫婦。たまたま妻が風呂に入ろうとしていた時に夫から電話が掛かって来た。何の気なしに妻は 「あら、お風呂に入ろうとしていたんだけれど、じゃあ行くわ」と云って夫を迎えに行った。帰って来て食事の支度をしたところ「風呂に入ろうとしていたんだろう?入って来れば?」と夫が云ってくれた。妻は、それですっかり良い気分になった。と云うのです。
この事例では、妻はそれまで「自分の欲求を言ってはならない」と何処かで思っていたのでしょう。ところが不意にそれを話してみれば、相手も気を遣ってくれた、と云う訳です。適切に語れば相手も判ってくれる、と云う例です。
アサーション権Ⅱ: 私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分で行動を決め、それを表現し、その結果について責任をもつ権利がある。
「アサーション権Ⅱ」。たとえば、誰かの誘いを、きちんと事情を話して断った時。それでも 「少しくらいいじゃないか」と更に誘われたらどうしますか。誘いに乗っても、断っても、後悔や罪悪感、恨みがましい気持ちが起こりやすいケースです。「本当は行きたくなかったのに」「誘いに乗ったことについて、どう言い訳しよう」「断ったりして気分を害さなかったかな?」「怒ってないかな?」 などなど。ですが、自分の決断や行動は、最終的には自分が決めたことなのです。誘った相手のせいで行った訳でもなければ、事情に拘束されて断った訳でもありません。どちらを選ぶ権利もあったのです。ただその決断と行動とを自分のものとして受け入れれば良いわけです。アサーション権Ⅲ: 私たちは誰でも間違い、それに責任を持つ権利がある。
「アサーション権Ⅲ」。意図的な規則違反や欺瞞を除いて、人間である以上は誰だって過ちを犯す権利があります。過ちを犯したならその責任を受け入れ、出来る限り最大限可能な範囲で、償う事が出来ます。また明文化された罰則規定のある事柄なら、それに従って償う事が出来ます。つまり「失敗は絶対にしてはならない」と云う価値観のもとでは、適切な自己表現は出来にくく「失敗する」権利もある、と知る必要があると云うことです。アサーション権Ⅳ: 私たちには、支払いに見合ったものを得る権利がある。
「アサーション権Ⅳ」。「泣き寝入り」する必要など何処にもないと云うことです。但し、ここで重要なのは、相手にも失敗する権利があると云うことです。そして、もし支払に見合わないもので譲歩するなら、その決断、行動は自分のものだと受け入れる必要があると云うことでもあります。つまり、必要以上に攻撃的になるのも、誰かのせいや、慣習のせいにするのも、おかしいと云うことです。アサーション権Ⅴ:私たちには、自己主張をしない権利もある。
「アサーション権Ⅴ」。権利があるからと云って、必ずそれを行使「しなければならない」などと云うことありません。行使しない権利だってもちろんあります。非主張的な人が自己主張できないことで悲嘆に暮れる必要などなりません。それは「自己主張をしない権利」を行使したわけです。ですが権利を行使した以上は、相手を恨む事も出来ません。アサーション権についてはもっとあると云う事ですが、基本的人権と云う認識は、自己主張するか否かの判断の、ひとつの基準にはなると思います。この章の締め括りで、平木(2009)は留意点として、この権利は自分にあると同時に他者にもあること。アサーション権と役割に付随した権利&義務とを混同しないことを挙げています。
【文献】
平木典子(2009) 「改訂版 アサーション・トレーニング」 日本・精神技術研究所
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