話し相手とカウンセリングの「Lamplight相談室」公式ブログ

話すことには心を癒す力が宿ります。あなたの大切な話し相手となり、どんなお話も聴かせて頂きます。誰にも話せないホントの気持ち。でも、ここでなら大丈夫。あなたの心が少しでも軽くなりますように。~話し相手からカウンセリングまで~

タグ:話し相手サービス


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これはボランティアなのだが、僕は、ある団体における自殺防止関連の電話相談を受けることが時々ある。無料で利用できると云うこともあって電話は頻繁にかかってくるのだが、そのたびに思うのである。世の中には「孤独」が満ち溢れているのだなと。

もちろん、そういう人たちがかけてくるのだから、その様な印象を受けるのだ、と云えなくはない。が、それにしても、と云うのが僕の印象である。あまりにもその手の相談が多い。

配偶者に先立たれての独り暮らし。あるいはそれに加えて、これまで電話をかけてきてくれた兄妹や親戚も高齢で亡くなられて話し相手もいない。そうではなく、病気によって家から出られず、話し相手は週に何度か来るヘルパーの方のみ。故郷を離れて1人暮らしなのだが職場や学校に友達がおらず孤独を感じている。独身だが定年後することがなくなり家から出なくなった。精神を患っており社会との繋がりを失い友人知人もない……etc。数え上げればきりがない。

ひとことで「孤独」と云っても色々ある。今あげたのは人と接触する機会がないタイプの孤独だが、それだけでも「街には孤独が満ちている」と、先の様な電話を受けていると感じてしまう。かつて「無縁社会」と云うテレビ番組が放映されたことがあったが、状況はあまり変わっていないように思えるし、逆に深刻になっている様にさえ感じる。

工夫をすれば、少なくとも話し相手くらいは確保できるようなケースはまだ良い。社会福祉協議会やNPO法人のボランティア団体などが主催する、地域活性や高齢者支援などを目的としたカフェ等の催しに参加する。昔の趣味を活かして友人をつくる。思い切ってアルバイトしてみる。デイサービスを利用する、作業所に行ってみる……etc.方法はなくはない。例えば、そうした工夫は出来るにせよ、これまでの来し方によって外に出るに出られない葛藤や、友達がいない悩み、と云ったケースならまだよい。話を聴くうちに道が開ける場合もあるからだ。

しかしながら、患っている病気の種類や、あるいは地域により先の様なサービスが不足している事情、また身体に支障を来しており外出が困難と云った事情、等々、どうすることも出来ずに人と接触する機会を持てない場合と云うケースもまた多いのである。その場合、電話を受けても、その孤独を分かち合うことは出来るが、そこから状況を変える方向での援助は出来ない。いや、そうした電話を受けて対話をすること自体が、少しばかり状況をかえることにはなっている。その人にとっては、その電話をしている時だけが人との接点になっているようなケースである。

「朝から晩まで誰とも話さない孤独が分かるか?」「どうしたらこの寂しさから逃れられるのか教えてくれ」「寂しくて寂しくてたまらない。どうしたらいいでしょう?」と訴える声は悲痛である。僕には、その寂しさを、孤独を、寄る辺なさを、受け止め共有することしか出来はしないのである。むろん少しでも社会が変容していくために出来ることがあれば行う。だが、それにしてもあまりにも微力である。

せめて、それで少しでも心が安らぐなら、そう思って僕は電話を受けている。もちろん、この相談室にしても同じことである。


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相談……この言葉にはどうしても「回答」「助言」という言葉が付き纏う。実際、こうしてお電話を受けていても、しばしばそうした事態に出会う。つまり、「~~な状態にありますがどうしたら良いか教えて下さい」「~~と云った事を考えなくなる方法を教えて下さい」「もっと~~な自分になりたいので私を変えて下さい」等々、そうしたクライアントのニーズは溢れかえっている。

ではそうしたニーズに対して、「話し相手サービス」なり「カウンセリング」には何が出来るのだろうか? 結論から云えば 「たいした事は出来ない」。すなわち、予めどこかに「正解」があると想定し、それを指示されるのを望むタイプのニーズには「たいした事は出来ない」のである。

そうしたニーズには、むしろコンサルテーションが向いている。コンサルテーションとは「専門家がクライアントに解決策を示してその発展を助ける業務を行うこと。専門家の診断や鑑定を受けること」とされている。あるいは「身の上相談」「人生相談」も適しているだろう。その道に詳しい専門家が知識のない素人に対して処方箋を提示する。何でも知っている先生に教えを乞うて救ってもらう。と云うスタイルである。

例えば、法律相談や行政相談などはこうしたタイプの相談だと思われる。あるいは医療相談もそうかも知れない。要は、クライアントの知らない「答え」が予め何処かにあって、それを知ることで、問題解決が図れるような場合である。

では、心理相談ではどうだろうか? もちろん心理的な領域にも一般的な助言と云うものはある。「この病気はどういう病気ですか?」と云う問いに答えたり、あるいは、心的疾患が疑われる場合に専門機関の受診を勧める……etc.のような場合である。だが、相談のなかで何らかの改善や解決を目指すとなればどうだろうか? その意味では、コンサルテーションはカウンセリングの中心領域ではないのである。

だが、先の様なニーズであっても、そのニーズに源泉の対しては「話し相手サービス」「カウンセリング」は無力な訳ではない。どういうことか? 差し当たり、

カウンセリングとは、「心理的な援助を必要とする人(クライアント/相談者)に対し、その人にとって望ましい変化が生じることを意図して、科学的知見に基づき、主に対話を通じた人間理解と援助とを行うこと」と云うことが出来るだろう。「話し相手サービス」はそうでないにしても、対話を通じた人間理解と援助とを行う点では同様である。つまり、この問題に関してはこうすれば良い、と云った助言など持ち合わせてはいないのである。

あるいはこうも云える。「カウンセラー」や「聴き手」は「答え」を知らないのだ、とも。ある意味で当然である。個人的かつ心理的な悩みや問題について、万人に当てはまるような「答え」など存在しないからだ。しかし逆に、「クライアント/相談者」の数だけ「答え」はある。そして、その「答えは」その人だけのものなのだ。そこには一般的な助言など存在しない。そこが「人生相談」や「身の上相談」と異なる点である。対話を通じて「クライアント/相談者」は自ら「答え」を見出して行くのであり、その過程を「カウンセラー」や「聴き手」は、真摯に、誠実に、全力で支援するのである。

と云って、悩みは悩みであり、問題は問題である。「クライアント/相談者」のニーズはすり替えられるべきではない。「不安でたまらない」ならその不安の除去がニーズである。それを人間的成長や、社会適応などにすり替えることは許されない。ただ、それとて、対話を通じて気持ちを分かち合い、ともに「解決」を模索する、と云った格好になるのである。その過程では、「カウンセラー」や 「聴き手」は問うこともするだろうし、感想も述べれば、提案もするだろう。そうした対話のなかで、「クライアント/相談者」はひとりでは見出すことの出来ない「答え」あるいは「解決」を見出して行くのである。


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